~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
方 言 分 布 (九)
橋を渡った。
家並みはまだ続いている。瓦屋根もあったが、檜皮葺の屋根があんがい多い。郵便局を過ぎ、小学校を過ぎると、三成警察署の前に出た。建物は、この田舎とは思われなおくらい立派だった。東京の武蔵野署や立川署ぐらいの大きさだった。
白いこの建物を背景にして、やはり山が迫っている。
署内に入ると、内には、たった五人しか座っていなかった。今西が、受付に居る制服の巡査に名刺を渡すと、奥に座ったい開襟シャツの肥えた男が自ら立ちあがって来た。
「警視庁の方ですね?」
にこにも笑っていた。
「私が署長です。さあ、どうぞ」
一番奥にある署長の机の前に案内された。
今西はそこで挨拶した。まだ、四十歳ぐらいにしか見えない太った署長は、遠路はるばるやって来た今西の労をねぎらった。
「お話しは県警の方から聞いていますよ」
署長は引出しの中から書類を出した。
「三木謙一さんのことで、お調べにお見えになったんですね?」
今西は頷いて言った。
「そうです。署長さんもだいたいはご承知だろうと思いますが、その三木謙一さんという人は、東京で殺されたのです。私どもはそんぽ捜査にかっかているわけですが、だんだん調べてみると、三木さんはこの三成署に警察官として奉職していたということがわかりました。そこで一応、こちらの居た頃の三木さんのことを聞きに参ったわけです」
署員が茶をくんで出した。
「古い話ですな」
署長は言った。
「もう二十年も前になりますので、署員のなかで三木さんのことを知った人はいないのですよ。しかし、出来るだけ聞いておきました」
「お忙しいところすみません」
今西栄太郎は頭を下げた。
「いや、それが、あまり詳しいことはわかりません。いま言ったように、ずいぶん、古いことですからな」
署長は説明に移った。
「お役に立つかどうかわかりませんが、ひととおりのことを言いましょう。三木謙一さんは、昭和四年六月に木次署に転属、八年三月にこの三成署に来られて、亀嵩駐在所に勤務されていました。この時はもう巡査部長になっていられましたがね。十一年には警部補に昇任されて、ここの警備係長になり、十三年に退職されました」
それは、今西が東京を発つ前に、島根県警の回答で知ったことだ。
「署長さん」
と、今西は言った。
「その略歴のことで、私は感じたのですが、三木さんは昇進がひどく早いようですね」
「そうです。ちょっと珍しいかも知れませんね」
署長もうなずいた。
「というのは、三木さんは仕事にも熱心でしたが、人柄がたいへん良かったというか、いろいろ善行をされているのです」
「ははあ」
「たとえば、この三成署に来られてからも、表彰を二度も受けておられます。ここに控えがございますから、それによって読みますと」
署長は書類に目を落とした。
「まず、第一回目は、この辺に水害がありましてね、今でいう何号台風でしょうか、そのために川が氾濫しました。そうそう、あなたもここに来られる途中でご覧になったでしょうが、あれが斐伊川というのです」
今西は、渡って来た橋の下を流れている川を思い出した。
「あの川が氾濫し、それに崖崩れがありましてね、相当な死傷者が出たわけです。その時、三木さんは救護に活躍されて、三人も救っておられます。一つは川に流されている子供を助け、あとは崖崩れのために家が潰れたのを挺身して中に入り、年寄りと子供とを二人助け出されております」
今西はメモをした。
「もう一つは、この辺一帯に火事がありましてね。この時も、三木さんは身を挺して火の燃える家屋に飛び込み、赤ン坊を救い出しました。これは、いったん逃げた母親が火の中に引き返そうとするのを、三木さんが止めて炎の中から助け出して来たのです。これも県の警察部長から感謝状を貰っておられます」
「なるほど」
今西はそれもメモした。
「大変評判のいい人ですし、そのほか三木さんのことを憶えている人は、みんなあの人をほめますね。あんないい人はいないと言って・・・。今西さん、私はあなた方の照会を受けて、事実を初めて知ったのですが、その善良な三木さんが、東京で不幸な死に方をされたのは、腑に落ちませんな」
2025/04/13
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