今西としては、ここでもやはり失望せねばならなかった。三木謙一の死の原因が、彼の巡査時代の何かに関係があると思って見込みをつけてきたのだが、それらしい片鱗もこの桐原老人の話にはなかった。
三木謙一に怨恨関係は探せなかった。怨恨どころか、聞けば聞くほど彼は立派な人物だった。こういう山奥にこのような警察官がいたのかと思うと、同じ道に居る今西は、ひそかに誇らねばならなかった。
彼はそのことに満足すると同時に、大きな空虚感を覚えた。この矛盾した気持は自分でも解釈がつかない。
「どうもありがとうございました」
今西は老人に感謝したが、その表情はどこか寂しかった。
「えや、なんのお役に立たで」
と、桐原小十郎は律義に会釈した。
「警視庁のだんなさん方がわざわざこの田舎にいらっしゃってご苦労はんでしたが、楚気なわけで三木さんに限って人に恨まれたァとか、二重の人格があァなどと、いいことは、決してあァません。あの人しは根っからの善人ええしでし。そうは、あの人しを知っちょるだれんでもに聞かしゃっても、同おない答ことしか言わんでしょう」
「よくわかりました。警察官として、私も三木さんが立派だったと聞くのは嬉しいです」
今西はこう答えた。
「私の見込み違いだったかも知れません」
「こげな、暑い時にご苦労はんでしたな」
老人は気の毒そうに今西の顔を見た。
「最後にいたずねしますが」
と、今西は言った。
「この亀嵩の人で、現在、東京に住んでいらっしゃられる方はおられませんか?」
「そげですな」
老人は首をかしげた。
「そりゃあどげなかな? なんせ、こげな部落じけでして、そうに他国よそに出え─たもんは相当かなああァますども、東京に行かしゃった人しは、おおかたわかあ筈はじでしが。田舎ざいごのことだもんけん、親、兄弟、親戚だあえは文通たよりがあァし、文通があァと自然わしゃちの耳に、誰々だあだあは東京に居おうという話があァます。土地が狭いもんだけん、そうがないと見いと、私わしには心当たあァません」
「三十前後の若い人です。そういう年輩に人は東京にいませんか?」
「聞いたことがあァません。私わしはこの土地で古顔で、こげな店もやっちょおますで、たいがいのことは耳に入はあますが」
「そうですか、いや失礼いたしました。
今西は挨拶して立ちあがろうとした。
「まあ、せっかく見えましただけん、もう一寸ちょんぼうええだあァませんか。三木さんの話は、えま言ったほかにはあァませんが、えまお話した俳句の探題箱などお目にかけましょう。今西さんとおっしゃいまァしたね。あんたは俳句をお詠よみになァませんか?」
「いや、興味がないことはありませんが」
「そげなら、ことさらです。今持ってきてごらんに入れまし。そうは珍しい箱でしてね。こうはさすが昔の名人が作ったもんで、今えまの者もんには到底真似がようできません。せっかくここまでこらっしゃったことだけん土産話みやげばなしに一つ見て帰ってござっしゃい」
桐原老人は手を鳴らした。
今西栄太郎は桐原老人の所で二時間ばかり過ごした。
帰る前に、桐原家に所蔵されている探題箱や、昔からの俳人が遺したという短冊などを見せてもらった。
下手の横好きで、こういうものを見せられると時間の経つのを忘れるのだが、今西の気持は重かった。これが、ここまで来た目的を果してのことなら、もっと楽しいに違いない。だが、主目的の収穫はないのだ。
殺された三木謙一が立派な人間だったと知って期待外れというのはおかしな話だが、捜査の上から見ると、被害者は何の手がかりも残してくれていないのでsる。被害者はあまりにも人格が出来すぎていた。
この村では、この桐原老人ぐらい三木謙一を知った者はいないのだから、ほかにたずねようはなかった。今西は、厚く礼を述べて桐原邸を辞した。
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