~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
血 痕 (五)
両側から崖の斜面が線路に向かって落ちていた。土砂崩れ防止のコンクリートの白さが目に痛かった。
トンネルの中まで捜索は出来ない。あいにくと懐中電灯を持っていなかった。
今西がトンネルのすぐ傍まで来て、引き返そうと思っていた時だった。彼の目は、ふと横の草の間に止った。
小さな、うす汚れたような茶色っぽいものが、草むらの中に、二三片ひっかかるようにこぼれていた。
今西は腰をかがめた。ていねいに、指をその紙片の端にかけて拾い上げた。
目に近づけて調べた時、今西の腕は鞭を入れたように激しく鳴りはじめた。
(あった!)
それは、ほぼ三センチ近くの布片だった。変色しているが、あきらかに木綿らしいシャツの布地なのだ。
雨と日数の経過とで、それはうす黒く変色しているが、その上にほんのわずかだが、茶褐色の絵具を染ませたような斑点があった。
今西はもう一枚を拾った。これは、茶褐色の部分がもっと大きく、ほとんど半分近くを占めていた。
彼は次々に拾った。全部で六枚あった。
いずれも、布地はうす黒くなっているが、茶褐色の色の部分の大きさは、さまざまである。
今西は、持っていた煙草空箱の中に採集品をていねいに入れて蓋をした。
(あった。あった。あった!)
今西は、呟きを夢中でつづけた。
今までの苦しさがいっぺんに吹き飛んだ。
その布片は、あきらかに鋏で切ったように截断されていた。布地は、今西が見ても上等の品だった。よくわからないが、木綿とテトロンとの混紡らしい。今西は、蒲田のバーに現れた男が淡いグレーのスポーツシャツを着ていたという話を考えていた。布地は汚れていたが、たしかに地の色は淡い灰色を帯びているように思えた。
とにかく、これで勇気が出た。今西は、初鹿野駅から次の汽車を待って乗り、トンネルを越して、笹子駅におりた。ここからもまた線路沿いを伝った。
拾得したものが、はっきり色の特徴を見せてくれたので、今度は探すのに目標が立った。
今西は歩いた。この辺は、山の重なりと狭い田圃の展がりとが交錯している。
今西は、草むらだけを中心にして、目の捜索を続けた。先ほど発見した布片の落ち具合から考えて、その布片は草むらの中に止まっている公算が大きかった。列車の進行と風の具合とでそうなるものだ、とはっきりわかった。
今西は五百メートル行っては休み、三百メートル行っては休んだ。こうしないと、目がくらみそうである。青田の向うには小高い山が重なり、片方の山間には列車の走るのが見えた。富士山麓に行く線路だった。
また歩いた。しかし、今度は元気が出ていた。今西は希望と勇気を取り返していた。
千メートルも歩いたころ、それは何度かの小休止ののちだったが、草むらに投げ捨てられた、弁当殻のすいぐ横に、眼底に焼き付いて離れない布片が二三枚かたまって落ちていた。草むらのかなり深い所で、よほど気をつけないとわからないくらいだった。
今西は斜面を少し降りて、それをていねいに拾い上げた。今度はほとんどが白い布片ばかりだったが、間違いなく、煙草の空箱の中に入れたものと同類だった。
今西は、それからも一時間ばかりかかって、その辺を重点的に探した。しかし、他の布片はよそに吹き飛んだのか、よほど深い所に潜っているのか、発見は出来なかった。
新聞記者の村山の話したことに嘘はなかった。彼の言葉通りに、正確に「紙吹雪」の残片は存在していたのでる。
ついに、大月駅まで歩き通した。
賑やかな町がふえて来て、線路は踏切と交錯した。
今西は、駅前の飲食店に入り、頭から水をかぶって気分を静めた。あのままだと、もう少しで日射病を起こして倒れそうであった。
今度は、猿橋と鳥沢間である。汽車に乗るほどのことはなかった。次の列車を待つより、歩いた方が早い。
広重の絵にも描かれた猿橋の橋を左手に眺めながら、鉄橋を渡ると、ふたたび、むせ返るような草いきれにする路だった。
燃えるような太陽は、ようやく西の方に傾いているが、暑さは一向に減らない。地面の照り返しは、今西の目と鼻を圧倒しそうなくらいである。
が、彼は歩いた。
(あった。あった。あった!)
今西は歩いた。
線路の先は湾曲し、陽に光っていた。今西の捜査も長い道程だった。しかし、ようやく、彼の目にも捜査の軌道が見えて来たような気がした。
2025/04/17
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