「紙吹雪の女」の行方を探し出すのは、ほとんど絶望に近かった。三ヶ月以前、中央線の上り夜汽車に乗っていたというだけで、ほかに手がかりがないのだ。その容貌も服装も、似たような若い女は東京に何十万人といるだろう。
しかし、この女が三木謙一殺しの犯人の協力者だったことは間違いない。列車の窓から撒いた布片の血液型が被害者のそれとも一致している。
考えると、犯人は三木謙一を浦田で殺して、そこからあまり遠くないところに逃げ込み、血染めの衣服を脱いだのである。女は犯人の血染めの衣類を小さく刻み、五月十九日に列車から撒き散らしたのである。犯人の犯行が五月十一日の真夜中で、列車の窓から撒いたのが十九日だから、約一週間ばかりの間がある。その間、血染めの犯人の衣服は、女が預かったことになる。
ところで、発見されたのは、当時、犯人が着ていたと思われるスポーツシャツである。では、返り血がついたのはシャツだけだろうか。
当然、ズボンにも血はついているはずだ。スポーツシャツは、小さく、鋏できざんで撒いたことで処分出来たが、ズボンの方はどうしたのであろう。
普通なら、シャツの布片と一緒に列車の窓から撒きそうなものだが、実際はそれをしなかった。シャツだけが血に染まったと考えるのは不自然で、やはり、ズボンにも返り血が付着しているものと思う。
そのズボンは、まだどこかで隠匿されているか、または形を崩されているかしているに違いない。
いずれにしても、犯人には情婦がいた。それが列車の中に乗っていた女だ。
今西栄太郎は、ここまでわかっていながら、女を実際的に探すことが不可能なのを知った。
最初の推定通り、改めて浦田駅を中心にして、目蒲線と池上線の沿線に刑事たちを歩かせたが無駄だった。女の人相を言って、間借かアパート住居を目標にしたのだが、手がかりはなかった。また、その女がキャバレーかバーの女給という推定も立てて、この方面にも調査の手を伸ばした。新聞記者の村山が見た夜汽車の女の特徴が、あまり上等でない布地のスーツを、上手に着こなしていたという点からの思い付きである。犯人に協力して、証拠隠滅工作をするような女だから、素人とは思われない、という考え方もあった。
捜査線上に、犯人のかたちも浮かんでこない現在、この女を唯一の目標に追わなければならなかった。しかし、これも一向に手がかりがつかめないのである。
今西栄太郎に、前よりはもっと憂鬱な、重苦しい日が続いた。
せっかく、捜査の軌道が見えたように思ったのだが、それはたちまち幻のように消えてしまったのだ。
炎天の下を、線路沿いにこつこつ歩いて、ようやく見つけた血痕のついた布片も、その苦労も、いっさいが無駄になったようだった。
今西栄太郎に木の重い毎日が続いたあとのある朝だった。
朝飯をすませて出勤迄のわずかな時間、茶を飲んでいると、煙草を買いにやらされていた妻の芳子が、あわただしく駆け戻って来た。
「あなた、大変ですよ」
今西は茶碗を口からはなした。
「何だ?」
「そこのアパートで自殺騒ぎが起こったんです。今それで所轄署の人たちが見えていますよ」
自殺などにあまり関心はなかった。すると、妻は目をつりあげたような表情で言った。
「それが、あなた、ほら、いつか、わたしたちも会ったでしょ、アパートにいる新劇の事務員さんですよ」
「え?」
今西はそれを聞いてびっくりした。
「あの女がかい?」
今西の目には、瞬間に路地で行き会った細面の背のすらりとした女の姿が浮んだ。
「へえ、おどろいたな」
「でしょう? わたしも聞いてびっくりしましたわ。まさか、あの方が、自殺するなんて。わからないものですね」
「いつ、死んだのは?」
「今朝の七時にアパートの人が部屋で発見したんですって。睡眠薬を二百錠も飲んでいたそうですよ。今、アパートの前は人がいっぱい集まっています」
「ふうん」
今西の目には、にぶい外灯の光の中で出会った若い女の顔がまたよみがえった。
「どうして、自殺なんかしたんだろうな?」
「さあ、よくわかりませんが、若い方のことですから、恋愛関係じゃないでしょうか?」
「妻は女らしい意見を言った。
「そうかな。やれやれ、これからが花だというのに、気の毒なことをした」
今西は着物を脱ぎ、洋服に着替えた。
ワイシャツを着てボタンを掛けている時、ふと、彼の頭の中によぎるものがあった。
「おい」
今西は妻を呼んだ。
「その女の顔をおまえよく見てたかい?」
「ええ」
「どんな顔つきだった?」
「そうですね。細面の目の大きいかわいい顔でしたわ」
「岡田茉莉子に似ていなかったか?」
「そうね」
妻は目を宙に浮かせた。
「そういえば、どこか岡田茉莉子に似たようなところもありました。そうそう、全体の印象がそんな感じでしたわ」
今西は、急に不機嫌そうなぬずかしい顔つきになって急いで上着を着た。
「行って来る」
「行ってらっしゃい」
妻は出勤する夫を見送った。
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