~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
血 痕 (九)
今西栄太郎はアパートの傍まで大股で歩いて来た。近所の人が十四五人も外に立って、アパートを眺めている。
所轄署の自動車が入口に置かれてあった。
今西はアパートの方へ歩いた。
今西栄太郎はアパートの階段を上がった。自殺者の部屋は二階の五号室だった。
部屋の前に行くと、所轄署の者が立っていた。今西の顔を知っているので、署員は会釈した。
「ご苦労さま」
今西は死者の部屋に入った。
三人の署員が立っていたが、自殺者は監察医がしゃがみ込んで検ていた。
「どぷも、ご苦労さま」
今西には、顔見知りの署員ばかりだった。
「ちょっと仏さまを見せて下さい」
自分の受け持ちでないので今西はことわった。署員は快く死体の傍に行かせてくれた。
今西は死者を上から覗いた。
死体は布団の中に横たわっている。髪をきれいに手入れし、顔に濃いめの化粧をしていた。死後の顔を人に見られるのを自殺者は意識していたのである。着ている着物もよそ行きのよぷだった。部屋はきちんと片づいている。
今西は死者の顔をじっと見つめた。美しい顔である。確かに今西が路地で出会ったあの女だった。細面で、格好のいい唇を小さくあけている。目を閉じているが、なるほど眼窩の具合からみて、あけたら大きい目に違いない。監察医は所見を助手に筆記させていた。今西はそれが終わるのをまった。
「睡眠薬ですって?」
と、彼は小声で署員の一人に聞いた。
「そうです。二百錠ばかり飲んでいるようです。今朝、発見されたのですが、死亡時刻は昨夜の十一時ごろという推定ですが」
署員は答えた。
「遺書は?」
「別にありません。しかし、それと思われれるような手記のようなものが書いてあります」
「名前は?」
「成瀬リエ子です。二十五歳です。前衛劇団の事務員となっています」
署員は手帳を見て言った。
今西は部屋を見まわした。客を迎えるように、すべてが几帳面に整っている。
今西は、その隅にある小さな洋服ダンスに目をとめた。
「実は、ちょっと気にかかることがあるんですかね」
今西は署員に言った。
「洋服ダンスをあけてもいいでしょうか?」
「どうぞ」
署員は快く応じてくれた。殺人事件ではなく、あきらかに自殺だから、さほど厳密ではなかった。今西はそっと洋服ダンスの方に行き、扉を開いた。
四五着分の洋服がハンガーにかかっていたが、今西の視線はその中の一つに注がれた。
黒のスーツだった。
今西の目はしばらくそれに吸いついたように密着していたが、黙って戸を閉じた。
彼は目で部屋を探した。すると、机と小さな本箱の間に、青いズックのスーツケースが置いてあるのが目に映った。スチューアデスの持っているような小型のケースであった。
今西は手帳を出してスーツケースの特徴をメモした。このころになるとやと検視が終わった。立ちあがった監察医と今西とははじめて顔を合せたが、この監察医には、これまで事件のたびに今西も世話になっている。
「先生、どうもご苦労さまです」
今西は監察医に頭を下げた。
「なあんだ、君か。どうしてこんなところへ?」
医者は、不審そうな目をした。本庁の刑事が来る事件ではない。
「なに、近所ですからね。ちょっと、覗きに寄ったのです」
「そう、君はこの近所だったのか?」
「この仏も途中で何度か会って、多少の因縁があるんです
「そりゃあ殊勝なことだ。まあ拝んであげてください」
医者は席をあけた。
今西はそこに膝を突いて死顔に合掌した。窓からの光線が、成瀬リエ子の半面に当たり、明るく清浄に見えた。
「先生」
と、今西は監察医の方を振り向いた。
「やっぱり自殺ですか?」
「そりゃあ間違いないね。睡眠薬を二百錠ぐらい飲んでいる。空瓶が枕もとにあったよ」
「解剖の必要はないわけですね?」
「その必要はない。はっきりしているからな」
今西は立ちあがった。
今度は所轄署の署員の方に行った。
「さっき、仏に遺書はないけれど、それい似たような日記があるということでしたが、ちょっと見せてもらえますか?」
「どうぞ」
署員は机の方へ行った。机の上はきれいに片づいている。署員は引出しをあけた。
「これですよ」
「大学ノートのようなものだった。それが開いたままになっている。
「ときどき、感想をつけたんですね」
今西は黙ってうなずき、文字を目で追った。なかなかの達筆だった。
2025/04/20
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