~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
血 痕 (十)
「── 愛とは孤独なものに運命づけられているのであるか。
── 三年の間、わたしたちの愛はつづいた。けれども築き上げられたものは何もなかった。これからも何もないままにつづけられるであろう。未来永劫にと彼は言う。その空疎さにわたしは、自分の指の間から砂がこぼれ落ちるような虚しさを味わう。絶望が、夜ごとのわたしの夢を鞭うつ。かれども、わたしは勇気を満たねばならない。彼を信じて生きねばならない。孤独な愛をまもり通さねばならない。孤独を自分に言い聞かせ、その中に喜びを持たねばならない。自身の築いたはかないものに、自分でとりすがって生きねばならない。この愛は、いつもわたしに犠牲を要求する。そのことにわたしは殉教的な歓喜さえ持たねばならない。未来永劫に、と彼は言う。わたしの生きる限り、彼はそれをつづけさせるのであろうか」
今西はノートをパラパラと繰った。
どのページを見ても、具体的なことは、一つもなかった。このような抽象的な感想しか書かれていない。取りようによっては本人だけがわかり、他人には秘密にしているといった書き方だった。
今西は、もぅ一度署員にことわって、先ほどから目をつけていたスーツケースを取り上げた。
彼は止め金を開いた。中身は整理したとみえて品物は何も入っていなかった。今西は隅まで探した。しかし彼が期待したような布片の残りは、一枚も入っていなかった。
「やっぱり、この娘さんは失恋自殺ですな」
所轄署の署員は今西栄太郎に言った。
「ノートに書いてあった文章を見ても、わかりますよ。この年ごろの女の子は一途に思いつめますからな」
今西はうなずいた。彼も同じ意見である。
しかし、所轄署の署員の言葉とは違った考え方を今西は持っていた。なるほどこの若い女性は相手に失恋して自殺したらしい。が、ただそれだけだろうか。
この女には別に罪の意識のようなものがあって、それが彼女を死に追いつめた一つの原因になっているのいではなかろうか。
今西の目には、夜汽車の窓から、鋏で細かく切った血染めの男のスポーツシャツを、風に撒いていく情景が浮んだ。
今西は、部屋をそっと出た。階下に降りた。
管理人のおばさんは白い顔をしていた。思いもよらない返事で顔を硬張らせていた。
今西とは顔なじみである。
「えらいことが起こりましたね」
今西は同情した。
「ほんとにおもいがけないことになって・・・」
と、おばさんはおろおろ声で言った。
「私はよく知らなかったが、かわいそうに、いい娘さんですな。日ごろから、陰気な女sでしたか?」
「いいえ、そういうところはなかったようです。ただ、こちらに移ってから長くないし、無口なので、よくわかりませんが、おとなしい上品な娘さんでしたよ」
「劇団の事務員だそうですね?」
「そうです」
「すると、よくあの女の子の部屋には、男の友だちといった若い連中が来ませんでしたか?」
「いいえ」
おばさんは首を振った。
「そういうことは一度もなかったですよ。あの女がここに移ってからふた月ぐらいになりますけれど、だれも訪ねて来ませんでしたね」
「ほう」
今西は考えていたが、
「部屋に入れなくとも、このアパートの近所で、若い男と一緒だったというところは見せませんでしたか?」
「さあ」
おばさんは首をかしげて、
「どうも、そんなことはなかったようですね」
「ベレー帽をかぶった若い男と、どこかで話していたというところも見なかったですか?」
「ベレー帽ですって?」
「ほら、大黒頭巾のような、あれですよ」
「さあ、そんな人も見かけなかったようです」
今西の記憶の中には、いつぞやの晩、ベレー帽をかぶった若い男が、アパートの彼女の部屋のちょうど下に当たるあたりをうろついている姿が残っていた。spの男は、たしか何かの歌の一節を口笛で吹いていた。
「おばさん、口笛を吹く男はうろついていませんでしたか? あの娘さんに合図をするような、誘い出すような、そういった調子の口笛です」
「さあ」
これにもおばさんは否定的だった。
「どうも。わたしには憶えがありません」
すると、口笛を吹いたのはあの晩だけだったのだろうか。毎晩のようだと、このおばさんの耳にも必ず入って印象に残っているはずだった。
2025/04/20
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