~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
血 痕 (十三)
今西は宮田と一緒に近くの喫茶店に入った。
喫茶店も午前中なので客はいなかった。店の子がガラスを拭いていた。
二人は奥まったテーブルに席をとった。
窓ガラスを透して入って来る光線から浮んだ宮田邦郎の顔は、やはり不安そうだった。
今西はちょっと変だなと思った。
刑事が訪問するのは、だれにしても気持がいいものではない。ことに、外に連れ出されて何を聞かれるかわからないとなると、平気でいられないだろう。しかし宮田邦郎の表情はもっと不安な影が強かった。
今西は、とにかく、相手の気持を楽にさせようとして、雑談からとりかかった。
「私は新劇のことなんか、ずいぶん素人でしてね」
今西は軽く笑いながら始めた。
「子供の時、築地小劇場というのがありましてね。友田恭介さんという人がいて、<どん底> という芝居を一度だけ見たことがあります。やっぱり、ああいうものをおやりになるのですか?」
「ええ、まあ、そういったものです」
若い俳優は言葉少なに答えた。三十年前 <どん底> を一度だけしか見たことがない男に、現在の新劇の状態を説明しても、むだだとわかったのかも知れない。
「そうですか・いや、んかなかハイカラでしたな。あなたも、やっぱり主役の方をなさっているんですか?」
「いいえ、ぼくなんか駆け出しの方です」
「そうですか、いろいろ大変ですね」
今西は煙草をすすめた。二人は運ばれたコーヒーを一緒に飲んだ。
「ところで、宮田さん。お忙しいところをご足労かけてすみませんが、稽古の途中じゃなかったんですか?」
「いま、あいています」
「そうですか。ところでつかぬことをうかがいますが、この劇団で女事務員をしていた、成瀬リエ子さんという人をご存じでしょ?」
この瞬間、宮田邦郎の顔の筋肉が、ぴくりとしたようだった。しかし、今西はさっき事務所に行った時も思ったのだが、この宮田も含めて、劇団の連中は成瀬リエ子の自殺を、まだ知らないようなふうだった。
宮田邦郎がぴくりと筋肉を動かしたのは、別な理由であろうと思った。
「宮田さん」
「はあ」
「成瀬さんは自殺しましたよ」
「え?」
宮田邦郎は、目を丸くして、飛びあがりそうな顔をした。彼はしばらく刑事を見つめていたが、
「そ、それは本当ですか?」
と、顔色を変えてどもった。
「昨夜です。ぼくが今朝、検視に立ち合ったので間違いありません。劇団にまだ通知がいっていないのですか?」
「何も知りません・・・。そうだ、劇団の事務長があわてて出て行ったとだけは聞きましたが、ではそのことでしょうか?」
「そうかも知れません。あなたは成瀬さんと懇意でしたか?」
窓ガラスにハエが一匹這っていた。
宮田邦郎は、しばらくうつむいて返事をしなかった。
「どうですか?」
「はあ、それはよく知っていました」
「ほほう。いや、宮田さん、ぼくがあなたにおたずねしたいと思ったのは、実は、成瀬さんの自殺の原因に何かお心当たりがないかということなんですがね」
俳優は沈痛な面持ちで顎に指をかけていた。今西は、その表情をじっとうかがった。
「宮田さん、成瀬さんが亡くなったのは自殺です。これは他殺でないから、ぼくらが出る幕ではないかもわかりませんがね。だが、亡くなられた方には申し訳ないが、成瀬さんの自殺のかくれた原因を、ぼくは知りたいのですよ。というのは、これはほかの事件に関係がありましてね。それを詳しく申し上げられないのは残念ですが、そんな具合であなたにお尋ねするわけです」
「しかし、ぼくは・・・・」
と、宮田邦郎は低い声で答えた。
「成瀬さんがどういう理由で自殺したか、それはわかりません」
「いや、遺書めいた手記はあるのですよ。それを遺書と言っていいかどうかわかりませんがね。文章から考えると恋愛関係で失望していたと言いますか、何かそのような悲劇的な言葉が書いてありました」
「そうですか。で相手の名前は書いてありましたか?」
宮田邦郎は顔を上げて、今西の方にきらりと目を光らせた。
「それが何も書いてないんです。たぶん、成瀬さんは、死後迷惑をかけたくないという心使いからではないでしょうか」
「そうですか。やっぱりそうでしたか」
「なに、やっぱりですって? じゃあ、あなたは心当たりがあるんですか?」
今西は、相手の顔の動きを少しも見逃さない目つきになった。
2025/04/22
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