~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
血 痕 (十四)
宮田邦郎に言葉がなかった。彼はまた目を伏せ、唇を噛んでいた。その唇は小さくふるえていた。
「宮田さん。ぼくは、あなたよりほかに成瀬さんの死んだ原因を知っている人はないと思いますがね」
「何ですって?」
俳優はまたびっくりしたような目を上げた。
「宮田さんは外に出る時、ベレー帽をかぶりますか?」
今西は、髪の毛を長目に伸ばした、彼の頭を見て言った。
「はあ、それはかぶります」
「あなたはずっと前の晩に、成瀬さんのアパートの近所のすし屋に寄りましたね?」
俳優の顔に新しい動揺が起こった。
「あなたは、しおのすし屋でファンにサインをしてやりましたね。そればかりじゃない。あなたは、成瀬さんのアパートの近くで、口笛を吹きながら彼女を誘い出そうしました?」
俳優の顔がみるみる白くなった。
「いや、ぼくじゃありません。ぼくは成瀬君を誘い出したことはありませんよ」
「しかし、あなたは、アパートの下で、口笛を吹いていた。あれは誘い出しの口笛だ。宮田さん、ぼくは、あの晩、あなたの姿も、その口笛も、通りがかりに見たり聞いたりしたのですよ」
今西が、彼をアパートの付近で見かけたと言うと、宮田邦郎の顔は蒼くなった。
俳優はしばらく黙っていた。その表情に、苦痛が滲んだ。
「どうです、宮田さん」
今西は畳かけた。
「もう、何もかもおっしゃってもらいたいものです。といって、ぼくはあなたをどうかしようと思っているのではありませんよ。成瀬リエ子さんは自殺です。警視庁は他殺の場合でないと動きません。しかしですね。ぼくたちは、成瀬さんをある意味では捜査していたんです」
俳優は、ぎょっとしたような表情をみせた。しかし、黙っていた。
「それは、別な事件に関係したことです。捜査上、詳しいことはちょっと申し上げかねますが、われわれにとっては重大なんですよ。成瀬さんをその参考人としてぼくらは考えているのです。そこへ、不意に自殺が起こった。これにはがっかりしましたね」
今西は相手の表情をうかがいながら話をつづけた。
「これはぼくの意見ですがね。成瀬さんの自殺の原因がもしかすると、ぼくらが聞きたいことに関連しているのでないかと思うんです。どうでしょうか、宮田さん。ほんとうのことを言ってくれませんか。成瀬さんがどうして自殺したか
俳優顔をゆがめ沈黙を守っていた。
今西、両肘をテーブルの上に立てて、指を組み合わせ。
「あなたはご存じのはずで。だいぶん、成瀬さんとお親しいようでしたからね。いやいや、これは別にどうというわけではないのですよ。ぼくらは、ただ、あなたから成瀬さんの自殺の原因についての心当たりを、ざっくばらんに話していただければ、と思うんです」
今西は宮田の顔を見つめつづけていた。こういう時の今西の目はふだんと少し違っていた。ある加害者は、彼から見つめられると、どうしても白状せざるを得なかったともらしたくらいである。人の心の奥まで覗き込むような目つきだった。
宮田邦郎は、もじもじしはじめた。動揺が、彼の体全体を落ちつかなくさせた。今西はその様子をじっと観察している。
「宮田さん、どうでしょう。ひとつ、ご協力願えませんか?」
今西は最後に押した。
「はあ」
宮田はハンカチを取り出して、額の汗をふいた。
「申し上げましょう」
太い息といっしょに言葉が吐き出された。宮田は今西の前に崩れた。
「ほう、話していただけますか。そりゃありがたい」
「待って下さい、刑事さん」
宮田はひきつった声で言った。
「なに、待てとおっしゃる?」
「いいえ、いっさいをお話しします。お話しします、今ちょっと口に出ないのです」
「どうしてですか?」
「何だか、ぼくの気持の中整理出来ないのです・・・刑事さん、成瀬さんの自殺については、おっしゃるようにぼくに心当たりがあります。いいえ、それだけではありません。ぼくはいろんなことをあなたにお話ししたいのです。けれど・・・今は、それが出来ないんです」
俳優の呼吸は苦しそうだった。
2025/04/24
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