~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
変 事 (二)
今西栄太郎は、翌日の夜八時きっかりに、銀座のS堂喫茶室に入った。
ドアを押して、入口から内部の全体を見渡した。客は混みあっていたが、俳優の顔はなかった。
彼は壁際のほうに席をとり、入口の方を向いて腰をおろした。こうすると、入口から入って来る宮田邦郎をすぐに発見することが出来るし、先方でも今西の発見が容易なはずだった。
今西は、コーヒーを頼んだ。
ポケットから週刊誌を出して読みはじめたが、ドアの回転のたびに目を活字からあげた。出て行く者、入って来る者、それを今西は番兵のように凝視した。
コーヒーをなるべく手間をかけてすすった。が、とうとう、一ぱいを飲み終わってしまっても、俳優は現れなかった。八時ニ十分になっていた。
今西は落ちつかなかった。
昨日、あれほど約束したのだから、嘘をつくはずはない。俳優という仕事は、セリフの読み合わせだとか、稽古だとか、いろいろと時間的に拘束されるので、時間どうりには来られないのだろう。もしかすると、もう三十分ぐらいは遅れるかも知れない。
今西は入口のドアを気にしながら週刊誌に目を通していたが、おり悪しく客は混む一方である。入って来た客が席のふさがっているのを見て、出て行く者が多い。とうに空っぽになった今西のコーヒー茶碗を見て、給仕女が早く席をあけろというような目つきをする。
宮田とここで落ち合う約束をしているのだから、どこにも行きようがなかった。
今西は、仕方がなく紅茶を頼んだ。これもたっぷりと時間をかけてすすった。
八時四十分になった。
俳優は現れない。今西は、ようやく、いらいらしてきた。
嘘を言ったのだろうか。いや、そんなはずはない。昨日の顔では、彼は真剣だったのだ。
では、気持をひるがえしたのだろうか。
それはあり得る。昨日の彼の悩みからみると、後悔して、約束を破ったとも考えられ。
おや、それはあるまい。こちらには彼の所属が前衛劇団とわかっている。彼もそれはよく知っているから、とんかく、今夜は全部を話さないにしても、何かの連絡には来るはずだ。
電話でもかけてくるかも知れない。
今西は待った。
電話がかかり、客の呼び出しはあったが、今西の名前はなかった。
紅茶が空になった。
意地悪く、客は次から次に入って来る。
今西は、フルーツポンチを頼んだ。
が、運ばれた品は半分も食えなかった。腹がだぶだぶになっていた。
一時間経った。
今西は諦めきれなかった。何とかして宮田の話を聞きたい。犯人に協力して、血痕のついたスポーツシャツを刻んで撒いた女 ── その女の秘密を一番よく知っている宮田から一切を聞きたい。
今西は、それからもじりじりしながら待った。
2025/04/24
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