今西栄太郎は、六時に目がさめた。
このごろは、年のせいか、こういう時間にかならず目があく。前の晩、どんなに遅くても、また事件で走りまわっていても、六時になると一度は必ず目がさめるのだ。
その朝も、やはり、その時刻に目があいた。
妻もまだ眠っていた。
今西は、昨夜のことを考えてばかばかしくなった。あれからも、S堂を出て、相手が遅れて来るような気がして、外で待ったのだ。ふしぎなもので、自分が帰ったすぐあとに相手がやって来るような未練が起こって、ずるずると、しばらく立っていたのだ。
が、結局待ちぼうけだった。
なぜ、宮田邦郎は約束を違えたのか。
俳優のことだから、何かの突発的な用事が出来て来られなかったのかも知れない。が、待ち合わせた場所がS堂とわかっているのだから、電話の連絡ぐらいありそうなものだった。それもなかったのだ。劇団に電話してみたが、みんな帰ったあとらしく、だれも出なかった。
宮田邦郎は、急に気持を変えたのだろうか。会った時も相当悩んでいたことだし、一切をお話ししましょう、と決心して言った時も、今西に一日の猶予を頼んだくらいだ。よほど話すのに決心がいるようだった。
それくらいだから、あとで約束をひるがえすことはありうる。宮田邦郎は、今西から本当に逃げたのかも知れない。
が、今西はべつに腹も立てなかった。こういう仕事をしていると、今までも、たびたびそういう目に会っている。刑事の仕事というのは、根気と忍耐が必要なのだ。
今朝は出勤したら、すぐに前衛劇団に行ってみるつもりだった。一昨日聞きそびれたが、まだ彼の住所を知っていない。劇団で聞いて、彼の自宅に回るつもりにしていた。
とにかく、宮田邦郎は、あの成瀬リエ子の何かを知っている。それも彼女にとって「いいこと」ではない。そこに成瀬リエ子と犯人とのつながりが潜んでいるように思う。
今西は、床の中で一ぷく煙草をすい、それから寝床を這い出して玄関に行った。新聞が格子戸の間に半分挟まっている。彼はそれを持って、また寝床に戻った。
今西は、新聞を広げた。
目をさました直後一とき、寝床で煙草をすいながら仰向いて新聞を読むのは、たのしみの一つである。
職業柄、彼はすぐ社会面を開いた。近ごろは、警視庁でも、さしたる事件もなく、したがって、記事も低調だった。どっちでもいいようなことが大きく扱ってある。
今西の目が真ん中の所で、急に止った。
二段抜きぐらいの見出しだが、それが彼の残ってい眠気を殴った。
「新劇俳優路傍に死す ケイコの帰り心臓麻痺で」
今西は、その見出しの横についている顔写真を見つめた。
やや面長の顔が笑っていた。一昨日、会ったばかりの宮田邦郎だった。写真の説明にも、その名前がついている。
今西は、噛みつくように記事を読みはじめた。
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「八月三十一日夜十一時ごろ、世田谷区粕谷町××番地付近で、会社重役杉村伊作さん(四二)が、自家用車を運転して帰宅の途中、ヘッドライトに映し出されて死体を発見。直ちに所轄成城署に届け出た。検視の結果、所持品から、死体は前衛劇団の俳優田宮邦郎さん(三〇)と判明。死因は一応心臓麻痺と判明したが、今日東京都監察医務院で解剖に付する。
宮田さんは、前衛劇団で当日夕刻六時半ごろに稽古をすませ、同劇団を出たものである。
前衛劇団杉浦秋子さんの話し。宮田さんは新進の俳優の中で将来有望な人で、近ごろはファンもかなりついてきて、われわれも楽しみにしていたのですが、残念です」 |
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今西は棒で目を突かれたような気がした。
宮田邦郎は死んだ ──。
今西は声も出なかった。
新聞記事だけでは詳しくはわからないが、宮田の死因は心臓麻痺だという。時が時だった。実際に心臓麻痺だったのだろうかという疑問がすぐに湧いた。
昨夜、あれほど宮田を待っても来ない筈である。その時刻には、すでに死亡いていたのかも知れない。
今西は目の前が乱れた。
宮田邦郎が死んだ。あまりにもタイムリーすぎた。これは偶然だろうか。
今西は寝床を蹴って起きた。
妻を急がせて朝飯を夢中でかきこんだ。
「どうしたんですか?」
女房が不思議がった。
「何でもない」
今西は火事場に出動する火消のように、手早く身支度をした。 |
2025/04/26
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