~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
変 事 (九)
二人はその家を出た。
恵美子は、関川にの腕にすがりつくようにして歩いていた。暗い道だった。
黒い闇の向うに電車の音が寂しく聞こえた。
「あら、まだ都電がありますのね」
恵美子は関川の肩に頬をつけて言った。
「終電だろうね」
関川は煙草を口から捨てた。赤い火が地面に小さく光った。
恵美子は空を見た。星が一面に出ていた。
「もう遅いんだな。あんなところに、オリオンが来ている」
関川は言った。
「オリオンっていう星、どれ?」
「ほれ、あれだよ」
関川は片方の指で空を差した。
「マストの灯のように、星が縦に三つ並んでいるだろう。それを取り囲むようにして、四つの星が取り囲んでいる」
「ああ、あれ?」
「秋になると、あの星が出て来る」
立ち止まった二人は、また、ゆっくりと歩き出した。
「冬になると、あの正座が澄んだ空気の中に、きらきら光るんだ。あいつが出るころになると、ああもう秋になったんだな、お思うよ」
「星にも詳しいのね?」
「そうでもないさ。子供のころ、ある人がいてね、もう死んだけれど、その人がいろんなことをぼくに教えてくれた。星のことだってそうだ。ぼくの田舎は山に囲まれていてね、空が狭いんだ」
関川は話した。
「それで、夜、近くの山の頂上に登って、その人が星を教えてく入れたもんだ。そこに登ると、狭い空がいっぺんにひろがって、とてもたのしかったよ」
「あなたのお郷里は、そんなに山の中なの」
「うん、山の中だ。三方が山に囲まれていてね。一方だけしか空がひらいていない」
「ななんていうところ?」
関川は黙った。
「言っても君にはわからない」
「どちらの方ですか。そうそう、秋田県だと、何かの本に書いてありましたわね」
「秋田県か、まあ、そういうことになったいる」
「変ね、そういうことになっているって?」
「そんな話はどっちでもいい。とにかく、君が言うように、ぼくみたいな仕事は、いろんなことを知っていなければならない」
関川は話を変えた。
「明日の晩は、また音楽会に引っ張り出されて何か書かされるんだ」
「お忙しいのね。どこの音楽会ですの?」
「和賀の音楽会だ。新聞社から頼まれたから、つい、気軽に引き受けたが、ちょっと気が重いよ」
「和賀さんの音楽って、すごく新しいんでしょう。なんですか、前衛音楽とかって・・・」
「そうだ。ミュージック・コンクレート(具体音楽)というんだ。今までも、それを先駆的にやった人はいる。和賀は、そこに目をつけはじめたんだがね。どうせ、奴には、そんなことしか出来ない。独創というものが全然ないんだよ。他人のものをあとから割り込んで横取りする。こりゃあ楽だ」
2025/04/29
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