あれはたしか終戦直前だった。正確な日付は覚えていない。しかしあのゼロだけは忘れない。悪魔のようなゼロだった。
俺は空母「タイコンデロガ」の五インチ高角砲の砲手だった。俺の役目はカミカゼから空母を守ることだった。狂気のように突っ込んで来るカミカゼを撃ち落すのだ。
我々の五インチ砲弾は近接信管といって、砲弾を中心に半径五十フィート(約十五メートル)に電波が放射されていて、その電波が飛行機を察知した瞬間に爆発する仕組みになっていた。最高の兵器だ。それを何百発と撃つんだ。ほとんどのカミカゼは空母に近づく前に吹き飛んだ。
初めてカミカゼを見た時にやってきた感情は恐怖だった。俺が「タイコンデロガ」に乗り込んだのは一九四五年初めのこと。噂に聞いていたカミカゼを目の当たりにし、こいつらに地獄の底まで道連れにされると思った。スーサイドモンバーなんて狂気の沙汰だ。そんなものは例外中の例外だと思いたい。しかし日本人は次から次へとカミカゼ攻撃で突っ込んで来る。俺たちの戦っている相手は人間ではないと思った。死ぬことを怖れないどころか、死に向って突っ込んで来るんだ。こいつらには家族がいないのか、友人や恋人はいないのか。死んで悲しむ人がいないのか。俺は違う、アリゾナの田舎には優しい両親がいたし、許嫁いなずけもいた。
しかし我が軍の砲は素晴らしかった。近接信管の威力は脅威的だった。それを全艦艇が一斉に撃ちまくるんだ。弾幕で空の色が変わるほどだった。それを突破出来るカミカゼはほとんどいなかった。弾幕を抜けてやって来るカミカゼには四〇ミリ機銃と二〇機銃のシャワーのような洗礼が待っている。ほとんどのカミカゼは爆発するか、燃えながら海に墜ちた。
やがて恐怖も薄らいだ。次にやって来た感情は怒りだった。神をも恐れぬ行為に対する怒りだった。いや、もしかしたら恐怖を与えられた復讐心から出たのかも知れない。
俺たち銃砲手は砲と機銃に怒りのエネルギーを乗せて撃ちまくった。
最初の恐怖が過ぎると、ゲームになった。我々はクレー射撃の標的を撃つようにカミカゼを撃ち墜とした。
奴等はたいてい浅い角度で突っ込んで来る。その頃の日本軍パイロットは新人ばかりで、深い急降下で突っ込んで来られる奴はほとんどいなかった。我々の砲はたいていの角度に合せることが出来るが、垂直に近い角度から突っ込まれると砲の照準がついていかない。しかし飛行機の方もそんな角度で突っ込めば体当たりするのが非常に困難になる。飛行機に詳しい奴が言っていたが、スピードが出過ぎると、舵が利かなくなるらしい。急降下で突っ込んで、目測もくそくを誤って海にダイブしたカミカゼも多く見た。
しかしカミカゼを撃つのも次第に辛くなってきた。標的はクレーじゃない、人間なんだ。
もう来ないでくれ! 何度そう思ったかわからない。
しかしやって来れば撃つ。そうしないと俺たちが死ぬからだ。カミカゼの体当たりを喰らって沈められた艦艇は少なくない。艦には何千人も乗っている。それが沈むということは何百人か死ぬということなんだ。たった一人の日本人のためにアメリカ人が何百人も死ぬ、それは許せることじゃない。沈まなくてもカミカゼがアタックを喰らえば、何人のアメリカ人が死ぬ。
五月の沖縄戦の後、我々の隊カミカゼ防御はほぼ完全な形になった。ほとんどのカミカゼは、本隊の一〇〇マイル前方に配置したピケット艦によって二〇〇マイル先からレーダーで捕捉され、艦隊のはるか手前の洋上で待ちかまえた遊撃機に撃ち墜とされた。
その頃はもうカミカゼに護衛の戦闘機もつかず、いうなれば番犬のいない羊の群のようなものだった。重い爆弾を抱えて動きも悪いカミカゼが我々の最新式戦闘機に敵かなうはずがない。
そんなわけで、ほとんどのカミカゼは機動部隊上空にたどり着くことさえ出来なくなった。
夏の来る頃には、我々高角砲の仕事も開店休業といった有様だった。八月に入ると、戦争はまもなく終わるだろうと多くの兵士が噂していた。
あの悪魔のようなゼロを見たのはそんな時だった。 |