~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
臆 病 者 (一)
元海軍少尉、長谷川梅雄の家は埼玉県の郊外にあった。長谷川の旧姓は石岡いしおかだったから、戦後、養子にでも行ったのかも知れない。
東京から一時間、降り立った駅の周辺は一応、町の形をしていたが、少し歩くと風景は一変しおて田圃だらけになった。太陽は頭の真上にある。雲一つない。七月に入ったばかりというのに日差しはきつく、虫の声がやたらやかましかった。
都会の暑さとはまた違う刺すような日差しだった。本物の夏といいう感じがした。
「暑いな」
ぼくは隣りを歩く姉に言った。
「私は結構楽しいよ」
答えになってないと思った。何かいらいらしてきた。
姉は、インタビューは自分がすると言ってたのに、直前なってぼくにつきて来てくれと言い出したのだ。「最初だけ、お願い」と姉に強く頼まれると、ついつい断われずに了承してしまったのだが、暑い田舎道を歩きながら大いに後悔した。
「ところで、戦争のことについて、ちょっとは勉強したの?」
「そんな暇ないわよ」と姉は言った。
「それに、余計な先入観を持たないでインタビューしたいしね」
相変わらず勝手なことを言うと思ったが、黙っていた。
駅から三十分は歩いただろうか、全身が汗びっしょりになった。さすがの姉も途中からほとんど喋らなくなった。

教えられた住所を頼りにして着いた家は、小さな農家だった。
平屋で、築五十年くらいは経っている感じだった。周囲は畑で、玄関前の空き地には軽トラックが置いてあった。どちらかというとみずぼらしい家だった。元海軍少尉という肩書から、立派な家を想像していたぼくは、少し肩すかしを喰らった気分だった。姉を見ると、彼女もまた家を観察するようにしげしげと眺めていた。
ぼくがガラス戸の横についていた呼び鈴のボタンを押したが、幾ら待っても何の応答もなかった。どうやら壊れているようだった。
ガラス戸越しに声をかけた。すぐ中から、どうぞ、という張りのある大きな声が返って来た。
玄関に入ると、痩せ細った老人が立っていた。その姿を見た時、どきっとした。老人の着ていた青い開襟シャツの左半そで部分から先に腕がなかったからだ。それが長谷川だった。
玄関横の応接室に通された。なにかとってつけたような部屋で、狭い四畳半くらいの部屋の中に、木製のテーブルが置かれてあった。壁には複製の絵が掛けられ、天井には安っぽいシャンデリアが下げられていた。ただ部屋の中は恐ろしく暑かった。多分、プレハブで応接室を増築したのだろう。部屋に入った途端、体中から汗が噴き出したが、クーラーをつけてくれとは言えなかった。
長谷川は白髪をオールバックにして、口ひげを生やしていた。人を値踏みするような細い目つきでぼくたちを見た。
姉は、黙っている長谷川に、あらためて今回の訪問の目的を話した。すなわち自分たちの祖父である宮部久蔵がどんな人だったかを知りたいということをだ。
その間、長谷川はぼくたちの顔を交互に見つめていた。部屋の暑さで汗がどんどん出てきた。
「手紙に男性の名前が書かれていたが?」
長谷川は聞いた。
「連絡は弟に任せていましたから」と姉は説明した。
長谷川は納得したようにうなずいた。それからもう一度二人の顔をじっと見つめた。
「あのう」と姉が口を開いた。「長谷川さんは祖父ご存じだとか?」
「知っている」長谷川は間髪入れず言った。「奴は海軍航空隊一の臆病者おくびょうものだった」
ぼくは、えっ、と思った。
「宮部久蔵は何よも命を惜しむ男だった」
姉の顔がさっと赤くなった。ぼくはテーブルの下で姉のひざに手を当てた。姉は大丈夫というふうにぼくの手を押さえた。
「それはどういうことなのでしょう?」
「どういうことなのでしょう?」
長谷川は姉の言葉を繰り返した。
「そのものずばり、命が惜しくてたまらないという男だった。我々飛行機乗りは、命を国に預けていた。わしは戦闘機乗りになった時から命は自分のものとは思っていなかった。絶対に畳の上では死なないと思っていた。なら、考えることはただ一つ、だ、どう死ぬか、だ」
長谷川は言いながら、右手で左肩を触った。腕のない左袖が揺れた。
「わしはいつでも死ねる覚悟が出来ていた。どんな戦場にあっても、命が惜しいと思ったことはない。しかし宮部久蔵という男はそうではなかった。奴はいつも逃げ回っていた。勝つことよりも己の命が助かることが奴の一番の望みだった」
「命が大切というのは、自然な感情だと思いますが?」
長谷川はじろりと姉を睨んだ。
「それは女の感情だ」
「どういう意味でしょう?」
ぼくは小さな声で、姉さん、と言った。しかし彼女は聞こえないふりをした。
「男も女も同じだと思います。自分の命を大切にするというのは当り前のことじゃないですか」
「それはね。お嬢さん。平和な時代の考え方だよ。我々は日本という国が滅ぶかどうかという戦いをしていたんだ。たとえわいが死んでも、それで国が残ればいい、と。ところが宮部という男は違った。あいつは戦場から逃げ回っていたんだ」
「それって素晴らしい考えだと思いますけど」
「素晴らしいだと!」長谷川は声を上げた。「戦争で逃げ回る兵隊がいたら戦いになるか」
「みんながそういう考え方であれば、戦争なんか起きないと思います」
長谷川はぽかんと口を開けた。
「あんたは学校で何を習って来たんだ。世界の歴史を学ばなかったのか。人類の歴史は戦争の歴史だ。もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう。そんなことは誰もわかっている。だが誰も戦争をなくせない」
「戦争は必要悪って言いたいのですか?」
「今ここで戦争が必要悪であるかどうかをあんたと議論しても無意味だ。そんなものはあんたが会社の戻って、上司箭同僚と思う存分やれ。それで戦争をなくす法が見つかれば、本にでもすればい。世界の首脳たちに贈れば、明日にでも戦争はなくなるだろうよ。なんなら、今も戦争を続けている地域にでも行って、みんなで逃げ回れば戦争はなくなります、と説いて回ればいい」
姉は唇をんだ。
「いいか、戦場とは戦う所だ。逃げるところじゃない。あの戦争が侵略戦争だったか、自衛のための戦争だったかは、わしたち兵士にとって関係ない。戦場に出れば、目の前の敵を討つ。それが兵士の務めだ。和平や停戦は政治家の仕事だ。違うか」
長谷川は言いながらまた右手で腕のない左肩を触った。
「宮部はいつも戦場から逃げ回っていた」
姉は答えなかった
「祖父のことが嫌いだったのdすね」とぼくは聞いた。
長谷川はぼくの方を見た。
「わしが宮部を臆病者と言うのは、奴が飛行機乗りだったからだ。奴が赤紙で招集された兵隊なら、命が惜しいと言ったところで何も言わん。だが奴は志願兵だった。自ら軍人になりたいと望んでなった航空兵だ。それゆえわしは奴が許せん。こんなわしの話を聞きたいか」
黙っている姉の代わりに、ぼくが「お願いします」と言った。
長谷川は鼻をふんと鳴らした。
ぼくはボイスレコーダーを使っていいかを尋ねた。長谷川はかまわんと言った。ぼくがボイスレコーダーのスイッチを入れると、長谷川は言った。
「よかろう、では、話そう」
2024/08/13
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