わしが海軍に入ったの昭和十一年の春だ。わしは埼玉県の農家に生まれた。八人兄弟の六番目だ。家は小作農だった。生きていくのが精一杯の、いわゆる水吞百姓だ。
まあ聞け。軍隊と飛行機乗りのことを知らなければ、わしがなぜ奴のことを嫌いなのか理解出来ないだろう。
わしは尋常小学校の時から勉強が出来た。自慢ではないが、ずっと酒席だった。しかし高等小学校に行かせてもらうのが精一杯で、中学には進めなかった。その頃の村の子供たちはほとんどがそうだった。中学へ進んだのは庄屋の伜せがれぐらいなもんさ。先生は「こんな優秀な子が中学へ進めないのは惜しい」と父に言ってくれたが、どうしようもないことだ。わしの三人の兄も優秀だったが誰も中学に行っていない。
高等小学校を卒業すると、口減らしのために奉公に出された。奉公先は大坂の豆腐屋だった。仕事は辛かった。朝が早くて、夜が遅かった。冬の辛さと言ったらなかった。冷たい水に手を浸け続けていると、指の感覚がなくなってくる。わしはそもやけになりやすいタチで、冬の間はずっと悩まされた。指が赤黒く変色し、皮が破れて、血が出た。それが治りきらないうちに、別の皮が破れた。その指を冷たい水に浸ける時は、激痛が走った。
わしは何度も泣いた。しかし主人は厳しい男だった。しもやけなど出来るのは甘ったれた性格だからと言われた。俺は何十年もこの仕事をやっているが、一度もしもやけになったことがない、と。
主人には何度も殴られた。今にして思えば、あれは一種の病気だったな。残忍な性格だった。人を殴るのが好きだったのだ。まるでわしを雇ったのは殴るためかと思うくらいに毎日殴られた。泣いているだけで殴られた。
奉公に出る時の夜間中学に通わせてやるという約束もすぐ反故ほごにされた。
しかし耐えるしかなかった。逃げて帰る所はどこにもなかったからだ。二年後、わしは六尺近くになっていた。体重もニ十貫近くになっていた。
主人はその変化に気がついていなかったようだ。ある日、虫の居所が悪かったらしく、いつものようにわしを殴りつけた。わしに非はなかった。わしは怒り、生まれて初めて主人を殴った。主人は怒り狂った。殺してやると、棍棒こんぼうで殴りかかって来た。
わしは棍棒を取り上げて、逆にそれで打った。主人は急に泣きながら謝った。許してくれと何度も言いながら、土下座した。主人の嬶かかあも飛んで来て、許してやってくれと頼んだ。今までわしが散々殴られても、一度も止めなかった女が、主人が殴られるのを見ただけで、泣きながら止めるのだ。それを見た途端、これまで以上に激しい怒りを覚えた。こいんな奴らにわしは何度も殴られていたのか。わしは女を蹴り倒すと、主人を棍棒で何度も殴りつけた。主人は泣きながら許してくれと叫んでいたが、そのうち気を失った。
わしは店を飛び出し、駅に向かった。帰るところは故郷くにしかなかった。しかし始発電車が来る前に警察に捕まった。未成年と言うことで、刑務所に入れられることはなかったが、警官には気絶するほど殴られた。
もう行く所は軍隊しかなかった。わしは海軍を志願して、入隊が認められた。
海軍では巡洋艦の機関兵になった。そこでも毎日殴られた。いったい日本の軍隊ほど人を殴るところはないだろう。陸軍もひどいというが、海軍はそれ以上だったという話だ。なぜなら陸軍の兵隊は鉄砲を持っているからだ。いざ前線に出ると、弾は前から飛んで来るとは限らない。あまりに恨みを買うと、戦場で後ろから撃たれるということもあったらしい。それで殴る時も陸軍ではほどほどのところでやめたということだ。しかし海軍の兵隊は銃を持っていない。それで海軍では上官が兵隊を思う存分殴れたという。嘘か本当か知らん。しかし散々に殴られたことは確かだ。
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