操練を卒業すると、中国の漢口に配属になった。昭和十六年の初めだ。
中国では最初九六きうろく式艦上戦闘機に乗っていた。零銭ほどではないが、これはいい戦闘機だった。わしは九六戦闘機で中国機を何機も墜とした。
その年の暮れ、大東亜戦争が始まった。真珠湾攻撃のことを知った時、地団駄を踏んだ。
わしの夢は第一航空艦隊の空母の「赤城あかぎ」に乗ることだったんだ。艦隊搭乗員になって米国と戦いたかった。もし「赤城」に乗れたら死んでもいいと思っていた。
しかしその願いはかなえられなかった。飛行機は九六艦戦から零戦に変わったが、空母への転属命令は来ず、来る日も来る日も中国空軍と戦った。ただし、その頃には中国空軍は零銭との戦いを徹底的に避けるようになっていたから、零銭での撃墜の機会はついになかった。
年が明けて、三月、わしは第三航空隊に転属となり、ボルネオへ行った。前年にフィリピンの米軍基地を台南航空隊が撃滅してから、日本軍はまさに破竹の進撃で、東南アジアから蘭印らんいんを次々に支配下に置いていった。まさに向かうところ敵なしといった状況だった。
わしらも日本軍の侵攻に合わせて、ボルネオ、セレベス、スマトラ、ジャワへと進出した。ジャワは何処へ行っても色の黒い先住民がいた。男も女も裸同然の格好で、「冒険ダン吉」の世界だと思った。あいつらはわしらを不思議そうに見ていたな。
最終的に行き着いたのはチモール島のクーパンという基地だ。そこがオースオライアのダーウィン攻略の拠点となった。
そこでわしは生まれて初めての英米の戦闘機と戦った。初陣でP40を墜とした。米英機は中国空軍とは違うぞと言われていたので警戒していたが、たいしたことはなかった。
わしはあらためて零戦のすごさを知らされた。あれは本当に素晴らしい戦闘機だった。米英機も、零戦にはまったく歯が立たなかった。格闘戦で旋回戦に入ると、苦もなく後ろにつくことが出来た。二十ミリ機銃を撃つと、敵機は吹っ飛んだ。P39、P40、ハリケーン、欧州でドイツ空軍を苦しめたというイギリスのスピッツファイアとも戦った。どれも零戦の敵ではなかった。
零戦はまさに戦いの申し子のような飛行機だった。出撃のたびに、多くの敵機を屠った。部隊として百機以上は撃墜しただろう。その間、我が方の損害は十機もなかったはずだ。わしも五機撃墜した。
わしはいつも敵戦闘機にとことん肉薄して弾を撃ち込んだ。「石岡の体当たり戦法」と仲間内で呼ばれていた。その頃のわしの名前は石岡だ。
弾というものはなかなか当たるものではない。訓練では百メートルの距離で撃てと教えられていたが、実戦になると、たいていの者は恐怖心から二百メートル以上離れている距離から撃ち出す。これでは当たらない。わしはいつも五十メートル以内に近寄って撃つ。それくらい近づくと敵機は照準器からおおきくはみ出る。だからわしは発射レバーを引いて外したことは滅多にない。
それにしても実戦に勝る訓練はない。その頃、わしらの技量はかなりのものだった。母艦搭乗員は優秀と言われていたが、わしらとは実戦での経験数がまったく違う。空母に配属になった時には高い技量を持っていただろうが、所詮しょせんは発着艦の上手うまさや模擬空戦の上手さに過ぎない。
模擬空戦がいかに強くとも、それは実戦ではない。命のやりとりを毎日繰り返した者とそうでない者の差はとてつもなく大きい。喩えてみれば、道場剣法と実戦剣法の差だ。竹刀しないでの打ち合いが強くとも、真剣で勝てるとは限らない。むしろ何度も人を斬った者の方が強い。わしは母艦搭乗員よりも腕があるという自負を持っていた。
わしがラバウルに配属になったのは、昭和十七年の秋だった。
その年の夏に始まったガダルカナルの攻防戦で、三空の一部がラバウルに進出したのだ。わしらは台南たいなん航空隊の指揮下に入った。
ガダルカナルは激しい戦場だった。ラバウルから長駆ちょうく千キロを飛んで行くのだが、これまでこんな距離を侵攻したことはない。何しろ片道三時間だ。それに敵戦闘機はポートダーウィンの奴等よりはるかに骨があった。出撃初日で、わしと共にラバウルに来た三空のベテランが二人未帰還になった。
こつはえらいところに来たぞ、と思った。
出撃はほぼ毎日あった。そのたびに多くの未帰還機が出た。こんなことはクーパンではあまりなかった。しかしラバウルの連中は別に驚きもしない。ここではこれが当り前なのだった。帰投した飛行機もたいていは銃弾を受けていた。無傷で帰ってくるなどということは少なかった。
だが、そんな戦場でも宮部はいつもまったく無傷で帰って来た。出撃した半数近くがやれれるような激しい戦いでも、奴はしれっとした顔で帰って来たし、その機体も出撃の時と同じ綺麗なままだった。奴が率いていた列隊もたいていは無傷で帰って来た。
腕があると言いたのだろう。だが、それは違う。
わしはラバウルの古参搭乗員に、なぜ宮部が無傷なのかを聞いた。腕があるのか、と、するとそいつは苦笑しながら言った。
「あいつは逃げるのが上手いからなあ」
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