いいか、空の戦場は地面の上とはまったく違う。一旦敵味方の飛行機が入り乱れて乱戦になると、もうどいつが敵か味方かもわからない。ある意味で平地の戦場よりも恐ろしい。空の上では塹壕などというもない。全部がむき出しだ。敵は前後左右どころか、上下にもいるのだ。目の前を敵が逃げていく。それを追う。そかしそ後ろから敵が追う。そしてその敵をさらに味方が追う。さらにその後ろには、今度は味方がそれを追う。敵側と味方側に別れての戦いとは根本的に違う。
そしてわしは見た。
あれはたしか九月の半ばだった。ガダルカナル上空で、待ち構えていた敵戦闘機と乱戦になった。敵はグラマンF4Fだった。ずんぐりむっくりした頑丈な奴だ。こいつは零戦の様な軽快性はないが、その代わりにめっぽう打たれ強かった。
わしは列機とはぐれて、二機のグラマンの後方につくと、すぐにもう一機がわしの後方につく。我々の編隊戦闘では、互に列機の死角を補うように戦うのが決まりだったが、こうまで徹底していてはいなかった。おそらく無線性能の違いだろう。当時の我々の無線ときたらまったくお粗末なもので、雑音ばかりで何も聞き取れなかった。わしなどは操縦席から無線機を外し、アンテナをのこぎりで切り落としていたくらいだ。無用の長物の無線機の重量を減らしたかったし、アンテナのわずかな空気抵抗さえも惜しかったのだ。
しかし零戦の性能は一対二くらいで不利になるほどのものではない。わしは何度目かにグラマンに後ろにつかれた時、慌てて逃げるフリをして、わしが標的にしていたもう一機のグラマンの前に飛び出した。瞬間的に二機のグラマンに同時に追われる形にしたのだ。二機のグラマンは同時にわしを追った。わしはこの時を待っていた。
操縦桿を思いきり引いて、宙返りに持ち込んだ。二機は同時に宙返りでわしを追った。それが命取りだった。零戦に宙返りで勝てる飛行機はない。零戦の旋回半径の短さは桁けた外れだ。それは敵も知っていたはずだが、目の前のチャンスに一瞬それを忘れたのだ。一回の旋回で、一機の後方にぴたりとつけた。一連射でグラマンは火を噴いた。もう一機は全速急降下で逃げた。追おうとしたが、宙返りで速度を失っていたから、あきらめた
その時、わしは戦場から大きく離れているのに気がついた。飛行機というものは旋回を繰り返すと、高度を大きく下げる。わしは二機のグラマンと戦っている間に二千メートルくらい高度を下げていたのだ。上空では、まだ多くの飛行機が入り乱れて戦っている。わしは再び戦場に戻るために、機首を上げた。その時、ふと上空を見ると、戦場からはるか離れたところに、三機の零戦がゆうゆうと飛んでいるのが見えた。それが宮部の小隊だった。
奴は、二機の列機を連れていち早く戦場を離れ、高みの見物をしていたのだ。もちろん証拠はない。わしと同じようにたまたま戦場から離れたところだったのかも知れん。しかしそうではにと思っている。これはわしの確信だ。
── なぜか、だと、奴は、大変な臆病者だったからだ。
奴は飛行中もとにかく偏執的に見張りを欠かさない男だった。飛行機乗りのとって見張りほど重要なものはない。一流と呼ばれる奴はみな目が良かった。見張りを欠かさず、必ず先に敵を見つけていた。ところが、奴の見張りは度を越していた。とんかく飛んでいる間、ずっと周囲をきょろきょろ見張ってばかりいた。これには皆呆あきれていた。あいつはとほどの怖がりだと陰口をたたく奴は何人もいた。音に聞こえたラバウル航空隊にこんな搭乗員がいたとは驚いた。
ラバウルは搭乗員の墓場と呼ばれていた。そんな所で奴は生き残り続けた。ふん、そりゃあ生き残るだろう。戦場から逃げてばかりいれば、死ぬことはないからな。
奴の「お命大事」は隊でも物笑いの種だった。奴の「名言」を知らない者はない。「生きて帰りたい」だ。どこで漏らしたのかは知らん。しかし噂になっていたほどだから、何度も吐いた言葉だったのだろう。
帝国海軍の軍人なら、絶対に言わない言葉だ。まして航空兵なら死んでも口にしてはならない言葉だ。わしらは赤紙で招集された兵隊ではない。自ら海軍に入り、自ら航空兵を志願したのだ。そんな男が「生きて帰りたい」だと。もしわしがそれを聞いたなら、その場で殴っていただろう。当時、奴は一飛曹で、わしは三飛曹だった。もちろん上官を殴るのだから禁固刑は覚悟の上だ。
何度も言うが、わしらは飛行機乗りだ。飛行機乗りにとっては、「死」ほど身近なものはない。操縦練習生の時から、「死」は常に隣り合わせにあった。旋回練習や急降下練習で死んだ同期は何人もいる。零戦が生まれた時も、何人ものテストパイロットが殉職したと聞いている。
毎日のように戦友が未帰還になり、それでも皆が必死で戦っている中で、自分一人が助かりたいとは、どういう神経だ。
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