~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
臆 病 者 (七)
わしは戦闘機乗りになった時から、立派に戦って立派に死のうと思った。どのみち命はないものと思っていた。だから死ぬ時も勇敢で男らしくありたかった。空戦でも逃げたことはない。それがわしの勲章だ。実際に勲章は貰わなかったが、それだけはわしの誇りだ。
わしは空戦で片腕を失った。ガダルカナルの戦場だ。あれは十七年の十月だった。
その日、わしは中攻の直掩機だった。中攻というのは海軍の一式陸攻という中型攻撃機の略称だ。攻撃機は速度が遅い。敵戦闘機に狙われればひとたまりもない。それで中攻には必ず零戦が護衛についた。零戦というのは、本来は護衛戦闘機なのだ。
その日の中攻の目標はガダルカナルの敵輸送船団だった。中攻は十二機、零戦も十二機だった。その中には宮部の奴もいた。
ガダルカナル上空では敵戦闘機が待ちかまえていた。その日の米軍の邀撃ようげきは激しかった。「ようげき」というのは迎撃のことだ。帝国海軍では邀撃といった。敵機は四十機以上いたのではないか。わしらは中攻を守りながら、グラマンと戦った。
わしらは懸命に中攻を守ったが、敵は零戦との格闘を避け、中攻ばかりを狙ってきた。敵機を追いかけると、別の奴が中攻に襲いかかる。中攻は次々に火を噴いて、墜ちていった。まるでオオカミの群を相手にしているようなものだった。
直掩任務は何よりも中攻を守ることが最優先とされた。敵機を撃墜するよりも 中攻を撃墜されないことが大事だった。敵を深追いして中攻から離れたすきを狙われれば、中攻はやられる。中攻には七人が乗っているし、何よりも敵飛行場を叩くための爆弾を抱えている。中攻の搭乗員はその一撃のために命を けている。直掩隊は、自らの身をていしてでも中攻を守れと言われていた。それがわしらの任務だった。
中攻隊が爆撃針路に入ろうとした時、一瞬、編隊の上に隙が出来た。そこにグラマンが二機襲いかかった。わしは間に合わんと見て咄嗟とっさに中攻隊と敵戦闘機の間に機をすべり込ませた。考えての行動ではない。援護機としての本能的なものだ。
次の瞬間、わしは頭上から撃たれた。風防が吹き飛び、頭に衝撃を受け一瞬眼の前が真っ暗になった。しかしすぐに意識を取り戻して、後ろを見た。中攻は無事だった。
その時、わしは左腕がひどく痛むのに気がついた。見ると、肩から下が血で真っ赤だ。わしは一旦空戦域から避退して飛行機を調べた。翼も胴体も穴だらけだったが、燃料タンクと発動機は飛弾していなかった。
空襲が終り、わしはほとんど片腕でラバウルに帰り着いた。途中、痛みと貧血で何度も気を失いかけたが、懸命に飛んだ。その日、中攻は六機が未帰還、零戦も三機が未帰還だった。きつい戦いだった。帰還した零戦もほとんどが機体に弾痕だんこんがあった。
後に知ったが、この時も宮部の機体はただの一発も機銃痕きじゅうこんはなかったという。これほど厳しい戦場でも、奴はまったく無傷だったのだ。その日はたしか奴も直掩隊だった。わしらが懸命に戦っている間、奴はどこにいたのだ。わしが左腕を撃たれている間どこを飛んでいたのだ。
結局左腕を失うことになった。内地にいれば、あるいは切断しなくて済んだかも知れん。
わしがラバウルにいたのは二ヶ月足らずだ。これが長いのか短いのかはわからん。戦闘機乗りとして生きたのは正味一年半だった。

わしの戦後の人生は苦難の連続だった。
国に命を捧げて片腕を失ったわしに世間は冷たかった。少尉になって除隊していたが、そんな肩書は戦後の社会で何も通用しない。それに終戦後に進級した所謂いわゆる「ポッダム少尉」だ。片腕の男にやる仕事はなかった。若い頃、口減らしのために田舎を放り出されたのに、結局、ここに舞い戻るハメになってしまった。
それでも世話をする人がいて、嫁を貰った。まあ、正確には入り婿むこだから嫁を貰ったというのは正しくないかも知れんが、もし腕を失わなかったら、もっといい人生が待っていただろう。いや、腕を失わなかったら、大空で死んでいたかも知れんな。それでもよかった。わしは死ぬことは少しも怖れていなかった。こんな田舎で土にまみれて惨めに生きるより、男なら華々しく散る方が素晴らしくはないか ──。
この年になって、つくづく思う。わしも特攻で死にたかった。五体満足であれば必ず志願していただろう。
わしが腕を失った三年後、宮部は特攻で死んだ。おそらく奴は志願はしなかっただろう。命令でいやいやながら特攻に行かされたに違いない。命を投げ出して戦った者がこうして命を長らえて、あれほど命を大事にして助かりたかった男が死んだ。
2024/08/19
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