長谷川に会った翌週、祖父の家を訪ねた。実の祖父の調査をしていることを言うためだった。
姉からは、わざわざ告げる必要はないと言われていたが、大好きな祖父に隠れて行動するのは嫌だった。言ったところで祖父はそんなことで気を悪くしないと思っていた。
ただ心配なこともあった。祖父は昨年心臓を悪くして以来、自宅で療養していたからだ。ずっと弁護士の仕事も数年前からほぼ引退状態で、事務所も人任せだった。身の回りのことは通いの家政婦さんがしてくれていた。
「弁護士になって早く私の事務遺書に来い」と言うのが口癖だったが、最近はそれも言わなくなった。それはそれで、ちょっと寂しいところでもあったのだが。国鉄職員を十年続けてから司法試験を受かった祖父にしてみれば、三年や四年の回り道などたいしたことはないと思っていたのかも知れない。
祖父の家には先客がいた。昔、祖父の事務所でアルバイトをしていた藤木秀一だ。
藤木はかつて司法試験を目指していた苦学生で、卒業後も祖父の事務所で働きながら勉強を続けてきた。しかし数年前に実家の父が病気で倒れ、稼業の鉄工所を継ぐために司法試験を断念して故郷に帰ったのだ。
前日に、大学時代の同窓会があり、久しぶりに祖父を訪ねて来たのだった。
「藤木さん、久しぶりです」
「こちらこそ」
藤木と会うのは二年ぶりだった。藤木は上京しや折は必ず祖父の家に顔を出してくれていた。
「それにしても健ちゃんは立派になったなあ。ぼくが先生のところを辞めた時は高校生だったもんな」
この台詞は前に会った時も言われた。
ぼくは彼の口から「今年はどうだった?」という言葉が出るのが怖かった。藤木には、ずっと「健ちゃんみたいな頭のいい子は見たことがないよ。司法試験なんて、学生時代に受かってしまうよ」と本気で言われていたからだった。彼にはよく可愛がってもらった。しかし藤木はぼくの現在に関しては何も触れなかった。ぼくは彼の優しさを感じた。
「藤木さんの鉄工所はどうなの?」
「うまくいかない」藤木さんはそう言って笑った。
「やればやるだけ赤字みたいな会社で、本当は工場もたたみたいんだけど、従業員がいるから、そういうわけにはいかないし ──」
藤木はそう言って白いものが見えはじめた頭をかいた。疲れた中年男という感じだった。いつも明るくて万年青年みたいだった藤木のそんな姿を見るのはちょっと辛かった。その司法試験のなれの果ての姿は、何かぼくの将来を見るような気もした。
「藤木さんは結婚してるの」
「いや、まだだよ。工場で必死に働いているうちに三十六歳になってしまった」
藤木はそう言って笑った。
藤木は間もなく祖父とぼくに挨拶して帰って行った。
藤木が帰った後、祖父は言った。
「あいつが事務所に来ていた頃は、私もまだ現役で頑張っていたなあ」
そして少し物思いにふける顔をした。
「おじいちゃん」と、ぼくは思い切って言った。「今、宮部久蔵さんのことを調べているんだ」
祖父の顔が一瞬固くなったような気がした。ぼくはしまったと思った。やはり祖父にとっては不快なことだったのだ。
「松乃まつのの前の夫だな」
ぼくは姉に頼まれたこと、母が実の父について知りたがっているということを慌てて説明した。
「清子きよこが ──」
祖父はそう言った後で、そうか、と小さく呟つぶやいた。
「お母さんの気持はぼくにもわかるよ」
祖父はじっとぼくの目を見つめた。その目はちょっと怖いような眼差しだった。
祖母が亡くなった時、祖父は遺体にすがりついて号泣した。祖父が泣く姿をはじめて見た。・病院の看護婦まで思わずもらい泣きするほど激しいものだった。祖父は心の底から祖母を愛していたのだ。
それだけにかつて祖母が別の男の妻だったという事実は、祖父にとっては嫌な思い出かも知れないと思った。古い時代の男性は女性に純潔を求めたと言うし、まして祖母は別の男の子まで生んでいるのだ。祖父にとって宮部久蔵という男は決して歓迎すべき存在ではないだろう。
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