「調べてみると、おばあちゃんと宮部久蔵は、ほとんど一緒に暮らしてなかった。彼は結婚してからずっと軍隊にいたみたいだ」
ぼくは祖父の気持を慮って言ったが、祖父は軽く頷うなずいただけだった。
「それで、どうやって、その人のことを調べているんだ」
「いくつかの戦友会に手紙を書いて、宮部久蔵を知っている人を捜してもらってる。今のところ話を聞けたのは一人。ラバウルで二ヶ月だけ一緒にいたという人。久蔵さんと同じ飛行機乗りだった人だ」
「その人は何と?」
ぼくはちょっと躊躇ちゅうちょしたが、祖父には正直に言った。
「臆病者おくびょうものだったらしい。いつも戦場から逃げていた人だった、って ──」それから自嘲気味につけ加えた。「ぼくにガッツがないのも、久蔵じいさんの血が入っているせいかも知れないね」
「馬鹿なことをっ!」
祖父は叱しかりつけるように言った。
「清子は小さい時から頑張り屋だった。どんな時にも弱音よわねを吐いたことがない。夫 ── お前の父だが ── を亡くしてから、女手一つで会計事務所を切り盛りし、お前たちを育て上げた。姉の慶子もその血を受け継いで頑張り屋だ。お前の血の中には、臆病者の血なんか入っていない」
「ごめんよ、そんな意味で言ったんじゃない」
しょげたぼくを見て、祖父は優しく言った。
「健太郎、お前は自分が思っているよりもずっと素晴らしい男だ。いつかそれに気がつく日が来るよ」
「おじいちゃんは、いつもぼくに優しいね。こんなことを言うと、あれだけど、その ── 」
「血が繋がってもいないのに、か」
「うん、まあ・・・」
「私がお前を好きなのは、心の優しい子だからだ。慶子も気は強いが優しい娘だ」
祖父はそう言って微笑んだ。
「優しいと言えば、藤木も優しい男だったな。あいつは自分が辛い思いをしても人のために頑張る奴だった。そういう性格だから、今の工場でも苦労しているんだろう」
ぼくは頷いた。たしかに藤木は優しくて誠実な男だった。
「ああいう人間こそ、弁護士になるべき男なのだが ──」
祖父は悔しそうにそう言った。
藤木が初めて祖父の事務所に来た時、ぼくはまだ小学生で、姉は中学生だった。彼からはいろんなことを教わった。面白い小説、歴史の話、偉大な芸術家たちの物語 ──。ぼくも姉も彼の話を聞くのが好きだった。ぼくは彼から弁護士がいかに素晴らしい職業かということも教えられたし、祖父がいかに立派な弁護士であるかということも教えられた。ぼくが弁護士を目指したのは、藤木の影響もあるかも知れなかった。幼いぼくにとって、彼はスパーマンだった。そしてぼくは彼が大好きだった。
しかし残念なkとに彼は優秀ではなかった。というか、司法試験に向いていなかった。法律書よりも小説や音楽を愛する男だった。だから短答式ででさえなかなか通らなかった。そんな彼を姉はいつもからかっていたが、それは愛情の裏返しだった。
藤木は故郷へ帰る前の週レンタカーで、ぼくと姉を箱根のドライブに連れて行ってくれた。ぼくが高校三年生、姉は大学四年生だった。箱根のドライブは随分以前にぼくが頼んでいたことだったが、ぼく自身覚えていなかったその約束を彼が律義りちぎに実行してくれたのだ。姉はこの時、車内で「十年近くも頑張って来たのにまったく駄目だったね」と言った。そして「山口の田舎で傾きかけた町工場の親父になるのね」と笑った。あの時の姉のからかいはいつもの親愛に溢あふれたものではなかった。しかし藤木は怒ることなく、困ったような笑顔を浮かべていた。代わりにぼくが姉の言葉に本気で腹を立てた。
ぼくは藤木が幸せになってほしいと思った。
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