~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
真 珠 湾 (五)
電話でも申し上げましたが、宮部との思い出は多くはありません。もちろん話をしたことはあります。しかし六十年以上も昔のことで、それらのすべてを思い出すことは難しいです。
宮部とは真珠湾からミッドウェーまで半年以上にわたって同じ戦場で戦い続けていました。二人とも空母「赤城あかぎ」の搭乗員でした。
空母というのは飛行機を積んだ軍艦で、航空母艦の略です。艦全体が小さな飛行場のようになっていて、飛行機が発着出来ます。大東亜戦争では最強の軍艦でした。
私は高等小学校を出て、予科練よかれんに入りました。幼い頃から実家の近くにある岩国の海軍航空隊の飛行機を見て育った私は、飛行機乗りにあこがれていたからです。典型的な軍国少年だったんですね。当時の予科練はすごい人気で競争率は百倍くらいありました。合格した時は飛び上がって喜びました。予科練と操練は違います。予科練は最初から航空兵として海軍に入りますが、操練は一般の水兵から航空兵を募ったものです。宮部は操練出身でしたね。
飛行訓練を終えて最初に配属になったのは横須賀航空隊でした。横空に二年以上いて「赤城」の乗組員になったのは昭和十六年の春でした。その時初めて新鋭戦闘機零戦に乗りました。そうです、ゼロ戦です。ただ当時私たちは新型戦闘機とかレイセンと呼んでいました。
── なぜ「零戦」と呼ばれたか。ですか。
零戦が正式採用になった皇紀二六〇〇の末尾のゼロをつけたのですよ。皇紀二六〇〇年は昭和十五年です。今は誰も皇紀など使う人はおませんね。ちなみに、その前年の皇紀二五九九年に採用になった爆撃機は九九きゅうきゅう式艦上爆撃機、その二年前に採用になった攻撃機は九七きゅうなな式艦上攻撃機です。いずれも真珠湾攻撃の主力となりました。零戦の正式名称は三菱零式艦上戦闘機です。
零戦は素晴らしい飛行機でした。何より格闘性能がずば抜けていました。すごいのは旋回と宙返りの能力です。非常に短い半径で旋回出来ました。だから格闘戦では絶対に負けないわけです。それに速度が速い。おそらく開戦当初は世界最高速度の飛行機だったのではないでしょうか。つまりスピードがある上に小回りが利くのです。
本来、戦闘機においては、この二つは相反するものでした。格闘性能を重視すると、速度が落ち、速度を上げると格闘性能が落ちます。しかし零戦はこの二つを併せ持った魔法の様な戦闘機だったのです。堀越二郎ほりこしじろう曽根嘉年そねよしとしという情熱に燃える二人の若い設計者の血のにじむような努力がこれを可能にしたのと言われています。
また機銃は通常の七・七ミリに加えて強大な二十ミリが搭載されていました。七・七ミリ気銃弾は飛行機に穴を開けるだけですが、二十ミリ機銃は炸裂弾でしたから、敵機に当たると爆発します。相手は一発で吹き飛びました。ただ二十ミリは発射速度が遅く、弾数が少なかったのが難点でしたが。
しかし零戦の真に恐ろしい武器は実はそれではありません。航続距離がけた外れだったことです。
三千キロを楽々と飛ぶのです。当時の単座戦闘機の航続距離は大体数百キロでしたから、三千キロというのがいかにすごい数字か想像がつくでしょう。
2024/08/22
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