宮部が空母の「赤城」の搭乗員となったのは十六年の夏です。彼は中国大陸の部隊からやって来ました。同じ頃、中国から何人かの戦闘機乗りが母艦に転属になりました。
彼らが母艦乗りになって最初に行なうのが着艦です。陸上の滑走路と違い、大きく揺れる艦の甲板に降りる着艦というのは非常に難しいもので、初めて行なう者にとってはなかなかの恐怖です。・
海軍の飛行機は陸軍の飛行機と違って、三点着陸が基本です。なぜなら尾部のフックを艦の制止索に引っかけないといけないからです。索はワイヤーで出来ていましたが、これにうまくかからないと空母の短い甲板には着艦出来ません。
ところが三点着陸は尾部を下げるため機首が上がります。すると操縦席からは飛行甲板が機首に遮られて見えなくなります。見えない甲板に勘だけを頼りに降りないといけないのです。着艦を急げば艦尾に激突です。またそれを怖れて慎重過ぎれば、制止索にフックを引っかけることが出来ず、艦首近くに設けた制動板にぶつかります。
下手をすれば艦首から海にドボンです。実際、着艦にミスして飛行機が海中に突っ込むのは決して珍しい光景ではありませんでした。そのため空母の着艦訓練には必ず「トンボ釣り」と呼ばれる駆逐艦が後方を走っていました。着艦に失敗して海中に落ちた飛行機をクレーンで吊り上げる様子がトンボを釣っているようだったからです。
ついでに言うと、まれに制止索も切れることがあり、それは非常に恐ろしいものでした。切れたワイヤーがムチのように飛行甲板を走るのです。私は、整備員の脚が切り飛ばされる光景を目撃したことがあります。さすがにその日は一日飯が喉を通りませんでした。もっともその後、戦場でもっと酸鼻な光景を何度も目撃して、少々のものでは動じなくなりましたが ──。
我々は中国から連中のお手並み拝見と、飛行甲板に出て彼らの着艦訓練を見物しました。
案の定、連中の初めての着艦はお粗末でした。いずれも大陸で戦って来た熟搭乗員たちばかりだったので、なんとかこなしてはいましたが、中には着艦に失敗して海中に落ちる者もいました。我々は腹を抱えて笑いました。
そんな中。見事な着艦を見せた者がいました。浅い角度でふんわりと真ん中近くに降り、艦首に一番近い制止索に引っかけて制動板ぎりぎりに飛行機を止めました。これは理想的な着艦でした。
制止索は艦尾から艦首に向って十本前後張られているのですが、艦首に一番近い索に引っかけて止めると、整備員が飛行機の移動をしやすく、時間をあけずに後続の飛行機の着艦が出来るのです。しかし艦首に近い衛士索に止めようとして失敗すると、制動板に飛行機をぶっつけたり、艦首から落ちたりする危険性も高いというわけです。ところが、そいの機は一番前の索に楽々と引っかけて着艦したのです。
我々も思わず、ほーと声を漏らしました。それが宮部でした。
「まぐれだろう」と誰かが言いました。
私は着艦を終えた宮部に声をかけました。同じ一飛曹という気安さもありましたが、着艦訓練の上手さに敬意を持ったからです。宮部は背の高い男でした。六尺近くはあったでしょうか。
「見事な着艦でしたね」
私の言葉に宮部はにっこり笑いました。その笑顔は実に人なつっこいものでした。
「空母の着艦は初めてでしたが、先任搭乗員の教え通りにやれば出来ました」
初めての着艦であれほど上手く出来るということは相当機体に対する感覚がよくないと出来ません。私はその時までに着艦の回数は三十回を数えていましたが、着艦のたびに緊張しました。
「空母のことは何もわかりませんから、よろしくお願いいたします」
宮部はそう言って、頭を下げました。私は少々面喰いました。こんな話し方をする軍人は珍しかったからです。もちろん我々も上官に対する時は丁寧な言葉で話します。そうしないと殴られるからです。しかし宮部は同じ階級どころか下の階級の人にも丁寧な口調で話していました。こんな軍人は帝国海軍では少なかったです。
宮部が搭乗員仲間に軽んじられるところがあったのは、多分その話し方のせいだったと思います。
海軍というところはバンカラなところがあり、特に搭乗員の世界は、言葉は悪いですが、ゴロツキの集まりのようなところがありました。これは明日をも知れぬ身の上だったことも大いに与あずかっていると思います。そういう世界に身を置いていると、若い連中もまいんなそういう雰囲気になってくるものですが、宮部だけはそうではありませんでした。
私はなぜか最初に会った時から宮部が好きになりました。私は宮部とは反対に血の気が多く、隊でもよく喧嘩をする暴れん坊でした。逆の性格だったから惹かれるところがあったのでしょうか。
下の階級の連中も宮部のことをどこか舐なめたような態度で接していましたが、宮部はそんなことも気にせず、いつも丁寧な受け答えをするものですから、余計に馬鹿にされていたようです。
しかし面と向かって宮部を馬鹿にする奴はいませんでした。理由は、彼がこと操縦の腕に関しては一流だったからです。
最初の着艦の時、口の悪い連中は「まぐれだろう」と言いましたが、それは間違っていました。宮部はその後も必ず艦首近くに着艦しました。いつしか宮部の着艦は、多くの搭乗員たちが見たがるものになりました。もしかしたら着艦に関しては帝国海軍一の腕前ではなかったでしょうか。
もっとも着艦能力と戦闘能力とは別です。ところが宮部は模擬空戦でも相当な腕前でした。聞けば、中国大陸で十機以上の敵機を撃墜しているということでした。当時は五機以上撃墜した者は猛者もさと呼ばれていました。外国ではエースと呼ばれるようですね。
彼の場合、その実績と普段の雰囲気の違いが、余計に仲間たちの陰口を誘っていたようです。 |