伊藤は突然、黙り込んだ。
腕を組み、目を閉じたまま何も語らなかった。そして、かなりたってから、「宮部は不思議な男でした」と呟くように言った。
「あの頃、私たち搭乗員は非日常の世界を生きていました。そこはすでに条理の世界ではありませんでした。死と隣り合わせの世界というか生の中に死が半分混じり合った世界で生きていたのです。死を怖れる感覚では生きていけない世界なのです。それなのに宮部は死を怖れていたのです。彼は戦争の中にあった日常の世界を生きていたのです。なぜそんな感覚を持つことが出来たのでしょう」
伊藤はぼくに問いかけるように言った。しかしぼくに答えられる質問ではなかった。あるいは伊藤は自問していたのかも知れない。
「戦後、復員して結婚し、家族を持って初めて、宮部が妻のために死にたくないという思いが理解出来るようになりました。しかし ──」
伊藤は強い口調で言った。
「それでも、あの時の、命が何よりも大事という宮部の言葉を肯定することは出来ません。戦争は一人で戦うものではありません。時に自分を犠牲にして戦わねばならないこともあるのです」
「ぼくにはわかりません」
「実はこんなこともありました。十七年の二月、ポートダーウィン空襲の時、宮部は機銃の故障で出撃早々に戻って来たことがありました。護衛戦闘機はたとえ銃弾が出なくても相手を追い払うことは出来ます。それに艦爆にしてみれば、そばの零戦がいてくれるだけで、心強かったでしょう。にもかかわらず、宮部は早々に引き揚げて来たのです」
「そうなのですか」
「偉そうに言うようですが、私ならしのまま行ったでしょう。たとえそれで撃墜されても」
僕は黙って頷いた。
「誤解しないで貰いたいのですが、彼の信念を非難しているのではありません。ただ、立派な考えであるとは決して言えないと申しています。お孫さんの前でこんなことを言うのは申し訳ありませんが、お許しください」
伊藤はそう言って深く頭を下げた。ぼくは伊藤さんという老人の誠意を感じた。
その時、ドアをノックして老婦人が姿を見せた。
「家内です」
夫人はフルーツをテーブルに置くと、「ごゆっくり」と言って部屋を出た。
「あれとは戦後に結婚しました」伊藤はそう言って照れくさそうに笑った。「見合い結婚ですが」
伊藤はサイドテーブルの上にちらりと視線を移した。そこには二人が並んで立っている写真があった。旅行先で撮ったものらしかった。
「優しそうな奥様ですね」
「それだけが取り柄ですよ。うん、本当に私によく尽くしてくれました」
伊藤がしみじみした口調で言った。
「あの写真はどこですか」
「ハワイです。三年前、金婚式の記念に旅行しましてね」
ハワイと聞いて少し驚いた。伊藤がぼくの気持ちを察したかのように、「初めて行きました」とつけ加えた。
ぼくはもう一度写真を見た。青い海をバックに伊藤は「気を付け」の姿勢で立っていた。そして右手はしっかりと夫人の手を握っていた。
「孫が小さい時に、よく言ったものです。おじいちゃんは昔ハワイに行ったのだぞって、でも本当はハワイの空には一度も行っていなかったのです。六十年以上も経って、いまだにそれが心残りでね」
「そうですか」
「しかし、ハワイ上空に行っていたら、孫どころか家内にも巡り会えなかったかも知れません」
伊藤はそう言って笑った。ぼくは真珠湾で亡くなった搭乗員が五十五人いたという話を思い出した。伊藤もそれを思い出したのか、視線を落とした。
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