南雲長官が率いる機動部隊はその後、太平洋を席巻しました。機動部隊とは航空部隊のことです。空母は戦艦に比べて速力があり、機動性に富むのでそう呼ばれていたのです。
南はニューギニアから、西はインド洋まで、まさに縦横無尽の暴れぶりでした。その間、多くの敵戦艦を空母艦上機が沈めました。「半年間は存分に暴れ回ってみせます」と山本五十六長官が語ったと言われるように、まさに無敵の戦いでした。
もちろん、我が機動部隊は幾度か敵航空機の攻撃を受けましたが、母艦を守る零戦隊が空母には指一本触れさせませんでした。当時、零戦に勝てる戦闘機はありませんでした。さらに自分で言うのも何ですか、南雲部隊の戦闘機搭乗員の力量は間違いなく世界一だったでしょう。
また攻撃隊の技量も入神の域に近いものがありました。インド洋で英国の巡洋艦と小型空母を沈めた時の急降下爆撃隊の命中率は九十パーセント近かったのです。これは急降下爆撃としては驚異的な数字です。
南雲艦隊は太平洋を制圧しました。今や制海権を取ることが出来るのは、最強の空母を持っている国でした。これはそれまでの軍事常識を打ち破るものでした。
長い間、世界は「大艦巨砲主義」の時代で、海戦というのは戦艦同士の戦いで決着がつくと考えられてきました。戦艦こそ史上最強の兵器であり、制海権を得るには強大な戦艦が必要と考えられていたのです。あの大英帝国が世界を制したのも強い戦艦を何隻も持っていたからです。浦賀に来たアメリカの黒船がどれほど幕府に脅威を与えたかということを見ても、戦艦がいかに凄い兵器だったかがわかります。世界の歴史は戦艦が作ったのです。
空母の登場は第一次世界大戦のa後です。ただ、その頃の飛行機は複葉機で、空母も補助的な役割を担う艦にすぎませんでした。飛行機による攻撃の有効性は一部で言われていましたが、小型艦船は沈めることが出来ても、戦艦などの大型艦を沈めることは不可能と考えられていました。
しかしその後の航空機の驚異的な発達により、いつの間にか空母の力が増していたのです。
これを世界に証明したのが、開戦劈頭へきとうの真珠湾攻撃です。航空機の攻撃だけで戦艦を一挙に五隻も沈めてしまったのです。この瞬間、何百年もの間、制海権を巡る戦いの主役であった戦艦は、その座を空母に譲ったのです。
海の主役が戦艦ではなく飛行機だという象徴的な戦いがもう一つありました。
それは真珠湾の二日後、マレー半島東沖で英国の誇る東洋艦隊の新鋭艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋艦「レパルス」を航空機攻撃で沈めた戦いです。サイゴン基地などから飛び立った三十六機の九六式陸上攻撃機が二隻のイギリス戦艦に魚雷攻撃を敢行して撃沈したのです。チャーチルが後に「第二次大戦でもっともショッキングな事件だった」と言った海戦です。
真珠湾攻撃で沈められた戦艦は碇泊しているところを奇襲されたものでしたが、英国の二隻の戦艦は完全に戦闘状態のところを撃沈されたのですから、その衝撃度はある意味で真珠湾以上のものがあったでしょう。この海戦で、護衛戦闘機を持たない戦艦は航空機の餌食となることが証明されました。
もはや日露戦争のような戦艦同士の艦隊決戦は起こり得ないこととなりました。真の艦隊決戦は空母同士の戦いとなったのです。当時、我が軍の正規空母は六席、対する米太平洋艦隊の空母は五隻でした。我々はいつの日か戦うことになるであろう空母同士の決戦に、腕を撫ぶしていました。
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