その機会は、開戦から半年後にやって来ました。
昭和十七年五月、ニューギニアのポートモレスピー攻略作戦で陸軍の輸送船を支援していた我が軍の空母と、モレスピー攻略作戦を阻止せんとする米軍の空母が正面から激突したのです。世界開戦史上初の正規空母同士の戦いです、ちなみに今日まで、空母対空母の戦いは日米以外にはありません。
残念ながら、私の乗っている「赤城」はその」戦いには参加しませんでした。我が方は五抗戦の「翔鶴」と「瑞鶴ずいかく」、敵は「レキシントン」と「ヨークタウン」です。
この珊瑚海海戦では、我が方は「レキシントン」を沈め「ヨークタウン」を大破せしめました。損害は「翔鶴」が中破のみで。「瑞鶴」は無傷でした。史上初の空母同士の戦いでは日本海軍に軍配が上がったのです。
当時、搭乗員の技量が一番高いのが「赤城」と「加賀かが」に属する第一航空戦隊と言われていました。略して一航戦です。次に続くのが「飛龍ひりゅう」と「蒼龍そうりゅう」の二航戦。「翔鶴」と「瑞鶴」の五航戦は搭乗員の腕がやや落ちると言われていました。「チョウチョ、トンボも鳥ならば、五航戦も鳥にうち」という戯ざれ歌があったほどです。それで珊瑚海海戦のことを聞いた私たち一航戦の搭乗員たちは「おれ達なら、米空母を二隻とも沈めてやったのに」と口惜しがったものです。
我々も早く敵空母と一戦交えたいという気持がふつふつと起こっていました。そしてその機会は一ヶ月後にやって来ました。
そうです、ミッドウェー海戦です。
この戦いはあまりにも有名ですね。結果は、日本軍の空母四隻が一挙に沈められました。海軍の誇る最強部隊である一航戦の「赤城」「加賀」、二航戦の「飛龍」「蒼龍」の四隻です。
戦後になってミッドウェーの敗北の原因をいろいろ本で読んで知りました。すべては我が軍の驕おごりにあったようです。
ミッドウェーの作戦は事前に米軍にすべて筒抜けだったのです。それは暗合が解読されていたからです。ただ、この時米軍の暗合解読チームも、日本軍の攻略目的地「AF」と呼ばれている場所がどこなのかはわからなかったのです。そこで米軍はミッドウェーの基地から平文ひらぶんで「蒸留装置が故障して真水が不足している」とニセ電文を送ったのです。日本軍はその日のうちに「AFは水が足りない様子」と暗合で送り、そこで米軍は「AF」がミッドウェーであることを知ったわけです。
米軍は手ぐすね引いて我が軍を待ち伏せていたのです。もちろん連合艦隊の司令部もそのことは予想していました。もともとミッドウェー島攻略作戦は米空母部隊をおびき出して撃滅する目的が含まれていたのです。逆に言えば、まんまと米空母がやって来たというわけです。
戦う前から、海軍全体には楽勝気分が蔓延まんえんしていました。参謀たちは、もしかしたら米空母は我が軍を怖れて出て来ないのではないかと考えていたようです。戦後知ったことですが、作戦中、参謀室で、ある司令官が航空甲参謀の源田さんに「ミッドウェーで敵空母がやって来たらどうする」と尋ねた時、源田さんは「鎧袖一触がいしゅういっしょくです」答えたらしいですが、さもありなんです。更にその少し前、山口の柱島で、参謀たちが敵味方に別れてミッドウェー作戦の図上演習をしたところ、日本の空母に爆弾が九発命中したそうです。その時、宇垣参謀長は「今のは三分の一の三発にする」と言って、演習を続け、作戦を考え直すことはまったくしなかったそうです。これでは何のための図上演習かわかりません。
油断はなだあります。ハワイ沖に米空母部隊の出撃を知らせるための潜水艦部隊を配備することになっていましたが、実際に配備されたのは、既に米空母がハワイを出た後でした。これもおそらく米空母は出撃しないだろうという思い込みのせいです。
あの日のことは、六十年以上たった今でもよく覚えています。まさに海軍にとって、いや日本にとって最悪の日でした。もちろん、それ以上にひどい敗北はその後何度も繰り返しました。しかしすべてはあのミッドウェーから始まったのです。
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