その日、私は朝からミッドウェー島の陸上基地を攻撃するための爆撃隊の直掩機として攻撃に参加していました。
この策戦はミッドウェー島の陸上基地を攻撃することでした。さらに敵機動部隊がやって来れば、これを撃滅するという二方面作戦でした。そのため常に索敵隊が出ていたのです。
空母同士の戦いは索敵で決まります。広い太平洋の上を高速で動き回る機動部隊を敵より一秒でも早く発見し、攻撃をかける。それこそが空母の戦いです。
さっきも言いましたが、初めての空母同士の戦いは「珊瑚海海戦」です。実はこの時の戦いでは奇妙なことが起こっています。日米とも互に相手を見つけて攻撃隊を双方共に接敵出来ず、一回目の攻撃は不発に終わったのですが、この時、事件が起こりました。
私が五航戦の攻撃隊が敵機動部隊を発見出来ずに、夜間になって空母に戻って来たのですが、夜間の着艦というものは非常に難しい。それで最初の一機は着艦のタイミングが合わず、そのまま空母の上を通り過ぎたのですが、何とその時に、その空母がアメリカの空母であることがわかったのです。この時の操縦員は随分驚いたことでしょう。さんざん探し回って見つけられなかった敵空母が、味方母艦と思って帰って来たところにいたのですから。
高速機動部隊の戦いというのはこれほど厄介なものなのです。互いの空母は毎時五十キロ前後の高速で移動します。二時間で彼我距離は最大二百キロも位置がずれるのです。このため、味方攻撃隊も、母艦に戻る時は出撃した位置とは大幅に違っていることが当り前なのです。しんなわけで、あわや敵空母に着艦するという事件が起こったのです。おそらく敵空母も泡を食ったことでしょう。
結局そいの攻撃隊は敵空母から逃れ、その後、味方の空母に帰り着きましたが、まさに笑い話のような出来事でしょう。
翌朝、双方の空母部隊は再度、索敵のために偵察隊を出しました。この時「翔鶴」の偵察機は敵空母を発見した後、燃料ギリギリまで敵艦隊と接触を続け、その位置を知らせました。「翔鶴」と「瑞鶴」からただちに攻撃隊が発進しましたが、その途中、攻撃隊は母艦に帰還中の偵察機とすれ違いました。その時、偵察機は反転し、味方攻撃隊を敵空母まで誘導したのです。偵察機が帰艦途中ということは燃料がもうないということです。その飛行機が味方攻撃隊を敵まで誘導するということは、自分たちがもう生きて戻れないことを意味します。
その偵察機は九七式艦上攻撃機で、機長は偵察員の菅野謙蔵飛曹長という人です。
同機の操縦員は後藤継男一飛曹で電信員は岸田清治郎一飛曹でした。三人は味方攻撃隊の必勝を願って自らの命を捨てたのです。
すみません、この年になると、涙もろくなってしまって ──。
攻撃隊はしかし菅野飛曹長たちの犠牲を無駄にはしませんでした。敵機動部隊に襲いかかり、先ほど申し上げたように、「レキシントン」を沈め「ヨークタウン」を撃破しました。
同じ頃、「翔鶴」と「瑞鶴」も敵攻撃機の攻撃を受けましたが、上空直衛の零戦の威力は凄まじく、敵の爆撃機と攻撃機をほとんど撃ち墜としました。「翔鶴」が爆弾三発を受けたものの「瑞鶴」は無傷でした。この時、瑞鶴の直衛には後に日本一の撃墜王となる岩本徹三さんがいました。
しかしながらこの戦いは戦術的には勝利しても戦略的には負けだったと言われています。なぜなら日本軍の当初の目的であったポートモレスピー攻略という作戦は頓挫したからです。
五航戦の任務は陸軍上陸部隊の輸送船団護衛にあったのです。しかし空母戦のあと、井上茂美しげよし長官は輸送船団を退却させました。敵機動部隊は既にあるか後方に避退していたにもかかわらず、それを怖れて作戦を中断したのです。結果として、第一線で勇敢に戦った兵士たちの努力を無にするような決断でした。このために後に陸軍はポートモレスピー攻略のために兵隊たちに片道分の食料しか持たせず、陸路でオーエンスタンレー山脈を超えるという無謀極まりない作戦を決行し、何万人という犠牲を出しています。
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