~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
真 珠 湾 (二十一)
宮部はそんな地獄の戦場で一年以上も生き残ったと聞いています。もしかしたら、臆病ゆえに命をながらえることが出来たのかも知れません。空の上は勇敢な者から死んでいく世界ですから。
宮部は、珊瑚戀海戦で帰還をあきらめて味方攻撃隊を誘導した菅野飛曹長や、ミッドウェー海戦で片道攻撃に出撃した友永大尉のような男ではありませんでした。しかし臆病であったことで、非難されるわれはないでしょう。
ただ、これだけは言っておきます。宮部の操縦技術は一流でした。私の口から言うのは面映いですが、開戦当時、第一航空戦隊に配属されたということは、一流の搭乗員であった証です。その後ガダルカナルでの地獄の戦場で生き長らえることが出来たのも、彼が本当の腕を持った搭乗員だったからです。

眼の前の二つのアイスコーヒーはすっかり氷が溶けていた。ぼくはグラスに口をつけることも忘れていた。元海軍中尉、伊藤寛次の話はぼくを圧倒した。これまで太平洋戦争ことなどろくに知らなかったぼくにとって、すべてが驚きだった。
航空母艦の戦いといえど、結局は人間同士の戦いだった。戦力ダータの差だけが勝敗を決めるのではない。勇気と決断力、それに冷静な判断力が勝敗と生死を分けるのだ。
それにしても当時の兵士たちは何という非情な世界に生きていたのだろう。つい六十年前には、こんな戦いが現実に行なわれていたのだ。祖父もまたそんな戦場の中にいた兵士の一人だった。
伊藤は祖父のことを、臆病な男だったが確かな腕を持ったパイロットだったと言った。その言葉は、ぼくにささやかな慰めを与えた。
「宮部は特攻隊で亡くなったのですか?」
不意に伊藤が聞いた。
「昭和二十年の八月に南西諸島沖で戦死しました」
「八月ですか ──。終戦の直前ですね。その頃は宮部のような熟練搭乗員までも特攻機に乗せたんですね」
「熟練特攻員が特攻に行くのは珍しいですか?」
「特攻で散った多くの搭乗員は予備学生と若い飛行兵でした。陸海軍は特攻用に彼らを速成搭乗員にして、体当たりさせたのです」
伊藤は苦しそうな顔をした。
「私も教官として多くの予備学生を教えました。一人前の搭乗員を育て上げるには最低でも二年はかかりますが、彼らは一年足らずで飛行訓練を終えました。体当たりするだけの搭乗員ならそれでいいとういことだったのでしょう」
伊藤の目に再び涙が光った。
「ひどい話ですね」とぼくは言った。
「そうですね。しかし戦術的には、熟練搭乗員を一回の特攻で殺してしまうのはもったいない話です。熟練搭乗員たちは、特攻機が敵艦隊に到達するまでの護衛の役目が与えられたのです。それに、熟練搭乗員には本土防空の役目もありました。しかし終戦間際にはもう敗北は決定的でしたし、一億玉砕、全機特攻という空気が作られていましたから、宮部のようなベテランにも特攻出撃命令があったのでしょうね」
ぼくは初めて祖父の無念を少し理解出来たような気になった。日中戦争からずっと戦わされ、最後は、特攻として使い捨てられたのだ。あれほど生きて帰りたがっていた祖父にとってどれほど悔しかったことだろう。
「一つだけ聞かせて下さい」とぼくは言った。「祖父は、祖母を愛していると言っていましたか」
伊藤は遠くを見るような目をした。
「愛している、とは言いませんでした。我々の世代は愛などという言葉を使うことはありません。それは宮部も同様です。彼は、妻のために死にたくない、と言ったのです」
ぼくは頷いた。
伊藤は続けて言った。
「それは私たちの世代では、愛しているという言葉と同じでしょう」
2024/09/03
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