私が茨城の谷田部で操縦練習生を終えて、最初に配属になったのは台南空です。十七年の二月、数えの二十歳、満で十八歳でした。
私は高等小学校を卒業後、地元の製糸工場で働いていましたが、十五歳の時、海軍に入りました。最初の一年は戦艦「霧島」の砲手をやっていましたが、水兵から航空兵に転属するものを募集しているということを聞いて、操練の試験を受けて航空兵になりました。
── なぜ海軍に入ったのか、ですか?
さあ、なぜでしょう。当時は二十歳になれば徴兵が待っていましたし、どのみち軍隊に入るなら海軍の方がいいと思ったのです。製糸工場で働いていても、賃金は安いし仕事は辛いし、将来性もありませんでしたから、今から見れば、そんな理由で命を失うかも知れない軍隊に自分から入るというのはおかしな話ですね。でも当時は普通のことでした。ただ、今にして思うと、海軍に入った理由の後ろには貧しさがあったんだと思います。
対米戦争は前年の十二月に始まっていました。真珠湾のことは谷田部航空隊で聞きました。
翌年、フィリピンのクラーク基地に行きました。ここはかつて米軍の航空基地でしたが、開戦二日目に台南空の急襲で航空機が潰滅させられ、その後、日本軍に占領されていました。台南空の三十四機の零戦隊は六十機の米戦闘機のほとんどを叩き墜としたと言います。味方の被害は四機だけでした。
私がフィリピンに行った時は、米軍は一掃されていて、まったくのんびりした状態でした。
台南空と言えば、歴戦の勇士揃いの航空隊ですが、私はまったくのヒヨッコでした。当時、私の階級は一等飛行兵 ── いわゆる兵です。海軍は兵、下士官、士官の順に階級があります。
クラーク基地に着くと、すぐに先輩の下士官から「空戦をやろう」と言われました。空戦といっても模擬空戦です。実際の空戦と同じように相手の後方に回り込むというものです。
「しばらく実戦から遠ざかっている。お前相手に軽く腕ならしをしておきたいんだ」
その下士官はそう言いましたが、実は模擬空戦には結構自信があり、谷田部空では一、二を争う腕でした。ここは一つ先輩たちになかなかやるなというところを見せておこうと思いました。
空戦は私の優位な位置から始まりました。これは打ち合わせ通りです。まあハンデを貰ったようなものですね。空戦では高度が上の方が圧倒的に有利なのです。
私は高位から突っ込みました。相手はするりと旋回して逃れます。しかし私の方が有利なのは変わりません。速度を利して相手に喰らいつきます。相手は宙返りで逃れようとします。私も追いかけます。ところが次の瞬間、相手の機を見失いました。こんなことは初めてです。相手の機はどこにもいません。後ろを振り向くと、何と相手がぴったりと私の後方についているではありませんか。
先輩は私の横に並ぶと、風防を開け、もう一度やろうと手で合図しました。望むところです。
再び、私の優位な位置から始まりました。ところが、これも同じ結果に終りました。私が相手を追いかけているのですが、いつの間にか相手が私の後ろについているのです。さらにもう一度やりましたが、三度目も同じ結果でした。
基地に戻った私を古参の下士官たちは笑いました。「そんな腕では命はいくつあっても足りんな」
私の相手をしてくれたのは林三飛曹でした。年は私より一つ上でした。
「参りました」
私は素直に言いました。
「林三飛曹は素晴らしい腕前ですね」
「俺なんか台南空では下手へたくその方だよ。宮崎飛曹長や坂井一飛曹なんか、俺とは比べものにならないぜ」
「そうなんですか」
「上には上がいるってことだよ」
林飛曹は笑って肩を叩きました。私はすかり自信を失いました。
飛行機の操縦は、ハンドルを切れば曲るという自動車のような簡単なものでではありません。旋回するにはフットバーを使って機体を傾けねばなりませんし、方向舵の扱いも速度と複雑に絡み合っています。そして戦闘機には水平だけでなく垂直の動きもあるのです。私もそれまで操縦に関してはかなりに自信があったのですが、い©義竜一流の搭乗員の腕前というのは想像を越えたものでした。
先輩たちにはその後もよく模擬空戦で鍛えられました。谷田部での模擬空戦とは全然違いました。これが実戦的な訓練かと思いました。もちろん自分も必死になって工夫しました。私があの戦争を何とか生き延びることが出来たのはこの時の先輩たちによる貴重な訓練が大きかったと思います。
もっとも先輩と言っても皆、二十歳を幾つか越えたくらいの人たちです。下士官最年長の坂井三郎一飛曹で当時二十五歳くたいだったでしょうか。それでも私から見れば随分とおじさんに見えました。
今、思い返して見れば、みんな本当に若かったでしね」
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