~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
ラ バ ウ ル (六)
その頃、南雲機動部隊は次々に南方の島を攻略し、海軍はそこに前進基地を作っていきました。そうして出来た基地に内地航空隊が次々と進出して行きました。
やがて大南空にもラバウルへの進出命令が来ました。ラバウルは赤道を越えたニューブリテン島にあります。ニューギニアの東北です。当時はラボールと言いました。
十七年の二月に占領したばかりの島で、日本から六千キロも離れた基地です。そしてここが南太平洋の最前線の基地になりました。
私たちは十七年の春頃に、輸送船でラバウルに行きました。
航海中、潜水艦につけられるよいう情報があり、ラバウル到着までは非常に心細かったのを覚えています。輸送船は「小牧丸」という名前でした。輸送船を護衛するのは小さな駆逐艦一隻だけ。これでは潜水艦に本気で攻撃されたはひとたまりもないと思ったものです。輸送船はラバウル到着の翌日、敵航空機の爆撃により港に沈座しました。その船は後に「小牧桟橋」と名付けられました。
後で思ったことですが、もしこの時の航海で「小牧丸」が沈められていたら、台南空、いや帝国海軍は大変な痛手を被るところでした。優れた戦闘機搭乗員を一挙に失うことはどれほどの損失化わかりません。この時、連合艦隊の大多数の艦艇はトラック島に悠然と在泊していたのですから、搭乗員を守るために駆逐艦を一隻や二隻回してもいいではないか、と後に思ったものです。しかし上層部の連中にしてみれば、搭乗員などいくらでも代わりいると思っていたのでしょう。

ラバウルは美しい所でした。
透き通るような青い海と抜けるような空、海岸に椰子の木が生い茂り、遠くには火山の姿も見えました。
飛行場の近くには古い町があり、西洋人たちが暮らしていた家が残っていました。もちろん西洋風の家で、なかなか風情のある町並みでした。しかしその町以外島のほとんどは自然に囲まれていました。飛行場と言っても、広大な野原のようなものでした。私たちが来た時はまだ飛行機はなく、湾内に水上機が数機いただけでした。ラバウルには天然の良港があり、ここは後に艦船の泊地になりました。
私は南海の楽園に来たように思いました。この地が後に搭乗員の墓場と呼ばれるようになるとは夢にも思いませんでした。
その後、「春日丸」という改造空母で零戦が運ばれ、私たちはその機を受領しに行き、そこで生まれて初めて空母からの発艦を経験しました。発艦は思っていたよりもずっと簡単でした。
「空母というのも、そんなに難しいものじゃないですね」
ラバウルに戻って、先輩の下士官にそれを言うと、
「着艦してから同じことを言ってみろ」
と、きつい言葉を貰いました。その時は、偉そうに先輩風を吹かしやがってと思いましたが、後に母艦搭乗員になった時、着艦の恐ろしさをたっぷり味わいました。

その後、私たちはラバウルから更に南のニューギニアのラエという基地に移動しました。ここは同じニューギニアのポートモレスビーを攻略するために作られた前進基地です。ラバウルからポートモレスビーまでは四百浬以上もあり、脚の長い零戦でもきつい距離ということで作られた基地です。四百浬は約七百キロです。
ラエはラバウルよりも更に何もないところでした。ここにも戦前からオーストラリア人の小さな町があったようですが、先だっての我が軍の空襲で、町のほとんどは燃えてなくなっていました。それでも何軒かの焼け残った家があり、我々搭乗員はその家に簡易ベッドを持ち込んで宿舎にしました。
ポートモレスビーはラエと同じニューギニアにあり、オーエンスタンレー山脈を挟んでちょうど南に位置しています。我々は連日、中功を護衛しながら、海を越えて、ポートモレスビーを攻めるのです。中功とは二基の発動機がついた中型攻撃機のことです。当時の主力は七人乗りの一式陸上攻撃機でした。
ポートモレスビー駐留の航空機部隊はアメリカとイギリスの航空機が主力でした。そこで我々は米英戦闘機と毎日のように戦いました。
2024/09/07
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