~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
ラ バ ウ ル (十三)
小隊長になっても宮部さんは、必ず、例の執拗しつような見張は怠りませんでした。
とにかくひっきりなしに後方を振り返るのです。その度に飛行機の角度を変えるのですから、列機としては結構気を使います。また背面飛行も頻繁にやります。
飛行機というやつは、下方のほとんどすべてが死角です。しかしたいていの敵は上方から高度を利用して攻撃してくるので、下方はそれほど心配しなくていいのです。それだけ下方は油断しているケースが多く、ある意味もっとも危ないと言えるかも知れません。事実、坂井さんなどは、敵を発見すると、しばしば後下方に回り込み、敵の下腹を撃ち抜くという攻撃方法を好みました。下方からの攻撃が危険なのは、奇襲前に敵に発見された場合、優位な位置から攻撃されるからです。前にも言いましたが、戦闘機での戦いでは、相手より高い位置にいるということは大変有利なことなのです。
見張りはやり過ぎることはないということはわかっていても、宮部さんの慎重ぶりはいささか度が過ぎていると思えました。
私が宮部さんを臆病と思ったもう一つの理由は、その戦いぶりからもきています。
宮部小隊長の列機になって、わかったことですが、宮部小隊長は決して空戦域に長く留まろうとはしませんでした。乱戦になると、いち早くそこから避退して、同じように戦域から逃れ出て来た敵機を狙います。
当時は私も若かったですから、乱戦になると、一機でも敵を喰ってやろうと、夢中でした。しかし小隊長が空戦域を離脱すれば、列機も従わざるを得ません。あと一息で敵を墜とせるチャンスを何度かふいにしたこともあります。そんな時はずいぶん悔しい思いをしたものです。
しかし一度、小隊長機を離れ、敵を深追いしたことがあります。
中功を攻撃して逃げようとするP40の背後にへばりついたのです。敵は急降下で振り切ろうとしましたが、回り込むように背後につきました。敵は必死で逃れよようとしまうが、逃しませんでした。海面近くまで追いかけ回し、七・七ミリ機銃と二十ミリ機銃を叩き込むと、敵機は海中に突っ込みました。その時です。私の機体の横に曳痕弾が走るのが見えました。後ろから撃たれたのです。
振り返ると、二機のP40が私の背後から挟み撃ちするようにくっついているではありまえんか。先程後ろを見た時にはいなかったはずなのに。
距離はまだかなりありまあしたが、敵機は急降下によってみるみる差を詰めてきます。曳痕弾 が自機の両側に走るのが見えます。左右どちらに逃げてもやられます。私は死を覚悟しました。
次の瞬間、私を包み込んでいた曳痕弾が消えました。振り返ると、一機の敵機が火を噴いて錐揉み状態で堕ちていました。もう一機は急降下で逃げて行きました。私の後ろには一機の零戦がいました。小隊長機でした。私が宮部さんに命を救われたのはこれで二度目です。
ラバウルに戻った時、私は宮部小隊長に言いました。
「小隊長、今日は有り難うございました」
「いいか、井崎」
と、宮部小隊長はにこりともせずに言いました。
「敵を墜とすことより、敵に墜とされない方がずっと大事だ」
「はい」
「それともアメリカ人一人の命と自分の命を交換するのか?」
「いいえ」
「では、何人くらいの敵の命となら、交換してもいい?」
私はちょっと考えて答えました。
「十人くらいならいいでしょうか」
「馬鹿」
宮部小隊長は初めて笑いました。そして珍しくざっくばらんな調子で言いました。
「てめえの命はそんなに安いのか」
私も思わず笑ってしまいました。
「たとえ敵機を撃ち漏らしても、生き残ることが出来れば、また敵機を撃墜する機会はある。しかし ──」
小隊長の目はもう笑っていませんでした。
「一度でも墜とされれば、それでもうおしまいだ」
「はい」
小隊長は最後に命令口調で言いました・。
「だから、とにかく生き延びることを第一に考えろ」
この時の宮部小隊長の言葉は心の底にずっしりと響きました。まさに死を覚悟した直後だけに、余計に重く受け止めることが出来たのかも知れません。
私がこの後、何度も数え切れないほどの空戦で生き延びることが出来たのも。この時の宮部小隊長の言葉のお陰です。
2024/09/15
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