~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
ラ バ ウ ル (十四)
私が宮部小隊長に教えられたのは、それだけではありません。
小隊長はいつも夜半に宿舎を離れ、一時間以上戻って来ませんでした。帰って来る時は全身に汗をかき、息も少し切らしていました。おかしな話ですが、宮部小隊長はどこか宿舎の遠くで、何というか、その、自慰でもしているのかな、と思っていたのです。
私たちは皆二十歳前後の健康な若者でした。明日をも知れない戦いに明け暮れてはいても性欲はあります。いや、常に死と隣り合わせなだけに余計に強いものがあったのかも知れません ── いや。それはわかりませんね。私たちの青春はたった一回だけでしたから、それ以外の人生と比べることは出来ません。
お恥ずかしい話ですが、私自身、何度も、しました。夜、寝床の中ですることもあれば、厠ですることもありました。また時には宿舎から遠く離れて、周囲に誰もいない野外でしたこともあります。ラバウルには慰安所があり、何度か行ったことがありましたが、ここ辺境のラエにはそんなものはありません。私でも性欲で悩まされたのですから、宮部小隊長のような妻帯者なら、もっと激しい焦燥感はあったことでしょう。
だから小隊長が夜半に出かけていても、どこへ行っているかは尋ねませんでした。
ある日の夕暮れ、宿舎からかなり離れた川に一人で釣りに行った帰りのことです。
草むらで、唸り声が聞こえて来ました。最初はぎょっとしましたが、好奇心に勝てず、ゆっくりと声のする方へ忍び寄りました。
草の陰から一人の男が何かを持ち上げています。男は宮部小隊長でした。小隊長は上半身裸になり、右手で壊れた飛行機の機銃の銃身を摑み、それを何度も持ち上げていました。私はこっそり忍び寄った手前、名乗りを上げるわけにもいかず、それを覗き見るはめになりました。
宮部小隊長は全身を真っ赤にさせていました。最後は、悲鳴のような声まで上げました。
しばらく休止すると、今度は近くの木の枝に足を引っかけ、逆さ吊りのような格好になりました。そしてその姿勢のままひたすら耐えているのです。顔が真っ赤になり、額の血管が浮き出てくいるのが見えました。今にも破裂するのいではないかと思えたほどでした。どれだけやっていたのでしょうか。覚えていませんが、とてつもなく長い時間そうやっていたと思います。
ようやく私にも小宮小隊長がなぜそんなことをやっているかがわかりまいた。空戦のための鍛錬です。戦闘機は旋回や宙返りする時には、Gがかかってものすいごく操縦桿が重くなります。Gというのは操縦中にかかる重力のことです。戦闘機乗りは重くなった操縦桿を片手で操りながら、戦うわけです。私たちも普段から腕の力を鍛えるために腕立て伏せや懸垂は欠かしませんでしたが、こんな鍛錬は見たことがありません。また逆さ吊りは、これも空戦のさなかの旋回と宙返りの時に頭に血が上る時のための鍛錬でしょう。
宮部小隊長が立ち去った後、私は小隊長の持っていた銃身を摑んで持ち上げようとして唖然としました。まったく持ち上がらないのです。どれほど力を込めても、銃身は地面に貼り付いたように動かないのです。
今度は両手で銃身を摑んで持ち上げました。その上で、渾身の力を込めてやっと持ち上げることが出来ました。これを片腕一本で上下させるとは、何という腕力 ── 宮部一飛曹の華麗な操縦技術はこの怪力に支えられていたのです。
2024/09/15
Next