~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
ラ バ ウ ル (十五)
翌日、私は宿舎を出て行く宮部小隊長に、声をかけました 。
「ご一緒させていただいてよろしいでしょうか」
小隊長は少し驚いた顔をしましたが、すぐににこっと笑いました。
「見られてたのか」
「すみません。覗くつもりはありませんでした。釣りの帰りに偶然、拝見しました」
「いいよ、別に秘密にしているわけではない」
小隊長は昨日の場所に行き、また同じように鍛錬を繰り返しました。小隊長が頑張っているのを黙って見ているわけにもいかず、私もその間、腕立て伏せをしました。
鍛錬を終えて、二人で地べたに座っている時、私は言いました。
「小隊長はすごいです。わたくしは昨日、あれを持ってみましたが、全然持ち上がりませんでした」
「すべては慣れだよ。あとは続ける根気だ。続けていくうちに力がついてくる」
「そうですか」
喜んでそう答えてから、小隊長が慰めで言ったことに気がつきました。
「小隊長は立派ですね」
「立派じゃないよ。こんなことはみんなやってる」
「そうなのですか」
「坂井さんも西澤さんも、みんなやってる」
「知りませんでした」
宮部小隊長は笑いました。
「誰もわざわざ皆の見ている前ではしない」
そう言えば坂井さんはしゅっちゅう宿舎のはりなどを使って懸垂をしていました。坂井さんの趣味なんだろうと思っていた自分がすごく間抜けに思えました。坂井さんなどは生まれながらにして操縦の天才と思っていたのです。
私も練習航空隊の練習生時代は長距離走、遠泳、懸垂など、毎日しごきにしごかれました。しかし搭乗委員になってからはそんな義務はなくなり、それが何よりも有難いと思っていた自分を恥ずかしく思いました。考えてみれば、すべては自分のためであったのです。
「でも苦しいでしょう?」
私は自分に対する言い訳のように小隊長に尋ねました。
「楽ではない。しかし、死ぬことの苦しさに比べたら、何ほどのこともない」
なんだか怒られているような気持になりました。
「小隊長は毎日やっておられるのですか」
宮部小隊長は黙って頷きました。
「出撃した日もですか」
小隊長はまた頷きました。私は感心しました。出撃した夜は、もう動くのも嫌になるほど疲れているのです。それなのに ──。
「今日はやめようお思う日はないのですか」
小隊長はそれに答えずに、おもむろにポケットから布袋を取り出しました。袋には折り畳んだ紙が入っていました。それを拡げると、中から一枚の写真が出て来ましたが、その写真には丁寧にセロハンが張られていました。
「家族の写真です」
「見せていただけますか」
宮部小隊長は宝物のようにそっと渡してくれました。両手で丁寧に受け取りました。若い婦人が生まれて間もない赤ん坊を抱いている写真でした。
「近所の写真館で撮って貰ったものらしいのです」
宮部小隊長の言葉が丁寧な口調になっているのに気がつきました。二人きりということもあったのでしょうが、奥様と子供のことを思い出して地が出たのかも知れません。
写真の女性はきれいな人でした。私はうらやましい気持を感じたのを覚えています。
「清子と言います。清い子と書きます」
「清子さんはきれいな人ですね」
小隊長は少しはにかんだように笑いました。
「妻はマツノと言います。清子は娘の名前です」
私は恥ずかしさに顔が真っ赤になりました。あわてて「可愛いお子さんですね」と言いました。
「六月に生まれました。ミッドウェーから戻ってすぐに生まれたのですが、休暇が取れず、会いに行くことがかないませんでした。ですから未だ一度も会っていないのです」
ミッドウェーの生き残りはしばらく軟禁状態にされたという噂は本当なんだなと思いました。
「辛い、もう辞めよう、そう思った時、これを見るのです。これを見ると、勇気が湧いてきます」
宮部小隊長はそう言って少し照れくさそうに笑いました。
「こんなものを見ないと勇気が出ないなんて、情けないでしょう」
「そんなことはありません」
私はそう言いましたが、宮部小隊長はもうその声を聞いていませんでした。写真を鋭い目で睨んでいました。
それから宮部小隊長は写真をポケットに仕舞うと、つぶやくように言いました。
「娘に会うためには、何としても死ねない」
その顔は普段の穏和な彼からは想像もつかないほど恐ろしい顔でした。
2024/09/19
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