~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
ラ バ ウ ル (十九)
しばらくして、ラバウルの東に位置するブカ島から五機の零戦が不時着した知らせがありました。燃料切れでラバウルまで戻ることが出来なかったのです。しかしその中にも坂井一飛曹の機はないという報告でした。
更に一時間経っても坂井一飛曹は戻って来ませんでした。普通に考えても燃料の切れる時間です。
午後四時過ぎ、突然、飛行場のかなたに一機の零戦が現れました。基地にどよめきが起こりました。
しの零戦はふらふらとよろけるように着陸姿勢を取りました。何かおかしいと思いました。坂井一飛曹があんなふらついた着陸態勢を取りことはありません。。
零戦はゆっくりと降りて来ます。見ると、風防がやられていました。風防がやられたということは操縦席が撃たれたといおうことです。
零戦はまるで素人が着陸するように地面にバウンドしながら降り立ちました。そのまま滑走して、やがて静止しました。
飛行隊長の中島少佐と笹井中尉が翼によじ登り、壊れた風防を開けて、坂井一飛曹を座席から引きずり出しました。その姿を見た途端、駆け寄った全員が息を呑みました。何と顔は血でどす黒く染まり、上半身もまた血だらけだったからです。
坂井一飛曹は飛行機から降りると、鋭い声で「報告する」と言いました。笹井中尉が「その前に、治療だ」と怒鳴りました。坂井一飛曹の体を笹井中尉と西澤一飛曹の二人が抱きかかえました。私も坂井さんの体を後ろから支えました。全身から漂う血の臭いが鼻を突きました。
「いや、その前に報告する」
坂井一飛曹ははっきり言いました。私は、この人は鬼か、と思いました。
西澤一飛曹が「先任搭乗員、あなたは自分の傷がわかっていない」と言いましたが、坂井一飛曹は、指揮所まで自分の足でしっかり歩いて行きました。坂井一飛曹は指揮所で報国を済ますと、すぐに医務室に運ばれました。
坂井一飛曹の話はすぐに搭乗員たちに広まりました。坂井一飛曹はガダルカナルの攻撃が終り、帰投中、敵の艦上爆撃機の編隊を戦闘機の編隊と見誤り、後方攻撃をかけたのでした。
坂井一飛曹ともあろう人が大変なミスをしたのです。一人乗りの戦闘機の後方はまったく未防備ですが、艦爆は後部座席に二挺の旋回銃を持った機銃手がいます。坂井一飛曹はその艦爆の編隊八機の中に後方から突っ込んだのです。爆撃機の旋回銃は戦闘機の固定銃に比べて命中率は非常に低いですが、八機の旋回銃に狙われたらたまりません。坂井一飛曹は十六挺の旋回銃が雨あられと撃ちまくる中を突っ込んだのです。
機銃は坂井機の操縦席を吹き飛ばし、その一発が坂井一飛曹の頭をかすったのです。そして操縦席のガラスの破片が両目に突き刺さり、坂井一飛曹は目をやられました。
坂井一飛曹はうっすらとしか見えない目で、しかも頭の衝撃で左腕は麻痺していたため、右腕一本でラバウルまで戻って来たのです。頭からは大量の血を流しながらです。
「坂井一飛曹だからこそ、戻れたのでしょう。本当にすごい人です」
宮部小隊長は言いました。その声は震えていました。
「本当に坂井さんはすごい人です」
小隊長は繰り返しました。私もただ黙って頷いていました。
「しかし、自分たちは坂井さんではない。西澤一飛曹うや坂井一飛曹は本当の名人だ。誰にもあんな真似は出来るものではない。この戦いは、本当に厳しいものになる」
小隊長の声には、来たるべき過酷な戦いを予期しての悲壮な響きがありました。
この日、中功の未帰還は五機、零戦の未帰還はブカの不時着分を入れて六機でした。悲惨なのは片道攻撃の九機の艦爆隊です。攻撃終了後、予定海域に不時着水と決めて出撃した艦爆隊でしたが、飛行艇に救出されたのは四名のみ。十四名の熟練搭乗員の命が失われました。
翌日は、午前八時、私は宮部小隊長の二番機としてガダルカナルに向けて出撃そいました。出撃した零戦は全部で十五機。それがラバウルの使える零戦の全機でした。中功隊は二十三機。この日はすべてが雷装でした。聞けば、昨日の攻撃では中功は爆装だったということです。最初モレスビーを攻撃する予定だったのを急遽きゅうきょラバウルの輸送船団に切り替えたものの、魚雷に換装するのは間に合わなかったようです。
私たち零戦隊は中功に随伴して飛んでいましたが、飛べども飛べども見えるのは雲と海ばかりです。ガダルカナルとは何と遠い所かとあらてめて実感しました。
中功は速度が遅く、零戦との速度差があり、零戦はバリカン飛行と呼ばれるジグザグ飛行をしました。航空距離は零戦の方が短いだけに出来るだけ燃料を節約しなければなろませんでそたから、ジグザグ飛行は気持のいいものではありません。帰りは単騎で帰ることになるかも知れず、そのために、私も飛びながら、コンパスと定規で地図に位置を書き入れていきました。
出撃前、宮部小隊長からは「戦いは空戦だけではない。帰還するまでが戦いだ」としつこいほど言われていました。洋上で、自らの位置を見失って帰還出来なくなった飛行機は少なくないとも聞かされていました。帰還出来ないということは死を意味します。
時計を見ると、まもなく十一時になろうとしています。もうすぐガダルカナルのはずです。
雲を抜けると、はるか前方にガダルカナル島が見えました。
雲を抜けると、はるか前方にガダルカナル島が見えました。
ガダルカナルの海上に目をやった時、私は思わず息を呑みました。何とそこには無数の艦艇が島の泊地を埋めているのです。米軍はたかだか小さな島一つを奪うのにこれほど多数の艦艇をくり出すのか、と慄然としました。この敵に対して中功二十三機で攻撃したところで、どれほどの戦果が挙げられるもんあのか ──。
私は暗澹あんたんたる気持になりましたが、しかし、攻撃とあれば、断乎やるまでです。私は闘志を新たに奮い立たせました。
2024/09/22
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