この日、私は中功の直掩隊でした。護衛機には二つあって、一つは制空隊、もう一つは直掩隊です。
制空隊は敵上空の制空が目的ですが、直掩隊は中功を敵戦闘機から守るために中功に張りついていなければなりません。
前方には敵戦闘機の姿が見えました。先に出撃していた制空隊が敵の迎撃機と戦っています。制空隊は敵機を中功に近づけまいと奮戦していましたが、その攻撃をすり抜けて、敵戦闘機は中功に向って来ました。
敵戦闘機は初めて見るグラマンでした。戦後にわかったのですが、この時の米戦闘機隊は空母「サラトガ」「エンタープライズ」「ホーネット」の三隻の空母の艦載機でした。米軍はガダルカナルのために手持ちの全空母をつぎ込んでいたのです。
敵機は高度を利用して上空から襲いかかってきます。敵の戦法は一撃離脱です。上から突っ込んで来て、撃ちまくり、そのまま下方に逃げていくという単純な戦法です。
敵戦闘機は零戦を相手にしません。中功隊だけを目標に突っ込んできます。私たちも中功隊の援護が主任務ですから、空戦よりも敵戦闘機を追い払うことに徹します。それに直掩隊は中功から離れるわけにはいきません。敵は零戦隊が中功から離れるのを待っているのです。直掩隊の使命はたとえ我が身を犠牲にしても中功を守るというものです。
制空隊も帰りの燃料のことがありおますから、深追い出来ません。下方に逃げた敵は、再び、機首を立て直して上昇し、同じような攻撃を加えてきます。
上空に位置した敵戦闘機隊には、制空隊が向っていきますが、敵機はそれを逃れて中功隊に向ってきます。この日の戦闘では何回か反復攻撃を喰らいました。
我々直掩機は必死で中功を守りますが、執拗な反復攻撃に次々に中功がやられます。敵戦艦を目の前にして中功が火を吐いて堕ちてきます。こんな悔しいことはありません。
中功と呼ばれた一式陸攻は海軍を代表する爆撃機でしたが、防御が非常に弱いのが弱点でした。アメリカ軍からは「ワンショット・ライダー」という有り難くない渾名あだながつけられていたほどです。そうです「一発で火が点く」という意味です。速度の遅い爆撃機であるにもかかわらず、燃料タンクの防弾もなく、操縦席を守るための装甲もほとんどありません。そのため敵戦闘機に襲われた場合、簡単に撃墜されされました。ちなみに昭和十八年に連合艦隊司令長官の山本五十六大将が搭乗していて撃墜された飛行機がこの一式陸攻です。
それでも中功隊はようやく敵輸送船団近くまで迫りました。敵戦闘機が散ったかと思うと、今度は下から猛烈な対空砲火の嵐です。直掩隊も対空砲火を避けて、上空に避退しますが、中功隊は猛火の中を雷撃のために更に高度を下げていきます。
やがて中功隊は海面すれすれに雷撃針路を取ります。中功の周りで、敵艦からの猛烈な対空砲火が水柱を上げるのが見えます。中功が次々に火を噴いて海中に没していく中、それでも勇敢な中功隊はその砲火の中を突入していきます。まさに気魄迫る姿です。
敵輸送船の腹に必殺の魚雷が命中するのが見えました。
雷撃が終り、避退していく中功隊に再び敵戦闘機が襲いかかります。零戦隊も再び敵戦闘機に喰らいうきます。敵戦闘機の攻撃はしつこく、零戦隊もかなり手を焼きました。
この日、報告された戦果は敵艦二隻撃沈、輸送船九隻撃沈という華々しいものでしたが、戦後の米軍の記録を見ると、駆逐艦と輸送船をそれぞれ一隻撃沈しただけでした。
この日、私が出撃したのは午前八時、帰還したのは午後三時です。操縦席に七時間座り続けていました。ラバウルに着陸した時には、一瞬気が遠くなりかけました。こんな経験は初めてです。全身の骨ががたがたと外れていくようで、飛行機から降りるのもやっとでした。兵舎に向かう地面がふわふわと揺れているような感触だったのを覚えています。出来るならそのまま地面に倒れてしまいたいと思いました。
この日、我が方の未帰還機は中功十八機、零戦二機でした。中功は二十三機出撃して帰還出来たのはわずかに五機です。
何とわずか二日間で、九九艦爆が九機、一式陸功が二十三機、零戦が八機も失われたのです。ラバウルの攻撃機のほとんど、そして零戦の半分近くが失われたのです。
搭乗員の損失は約百五十人、一式陸功の乗員は七人ですから、一機撃墜されると七人の命が一挙に失われます。操縦員、偵察員、整備員、通信員など、それぞれの分野で一流の腕を持った男たち、いずれも何年もかかって鍛え上げた貴重な搭乗員たちです。それがたった二日間で百五十人も失われたのです。
私はあらためて宮部さんの言っていた「大変な戦いになる」という言葉を思い返しました。
そしてこの日の損失は決して例外的なものではなかったのです。
|