「少し休ませていただけませんか」
井崎はそう言って体をベッドに横たえた。娘の江村鈴子がチャイムを押して看護婦を呼んだ。
「大丈夫ですか」
ぼくの言葉に、井崎は寝たまま、右手を挙げて応えた。
しばらくして看護婦がやって来た。
「少し痛みが出てきました」
井崎は看護婦に言った。看護婦は注射を打った。しばらく井崎は目をつむって横になった。
「このへんで、おいとまします」
姉は鈴子に言った。その声を聞いた途端、井崎が「待ちなさい」と大きな声で言った。
「まだ、話さないといけないことがある」
「お父さん、大丈夫ですか」
娘の鈴子が心配そうに声をかけた。
「大丈夫だ。もう痛みは消えた」
井崎は体を起こした。しかし、その顔はまだ痛みをこらえている顔だった。
「私たちなら、また後日に伺います」
「それには及びません」井崎は言った。「八十年も生きていれば、体の方々がおかしくなっても当然です」
看護婦は椅子に座った。そして、ちょうど勤務時間が終りだからしばらくここにいますと言った。
「看護婦さん付きだから安心だ」
井崎は笑って言ったが、その笑顔は無理矢理に作った感じだった。鈴子はそんな父を心配そうに見ていた。
「若い頃は体力には自信がありましたが。ラバウルにいた頃は ── そこにいた誠一の年でした」
誠一という青年は一瞬表情を強ばらせた。
「井崎さんと祖父は固い結びつきがあったのですね」
姉は言った。
「何度も言うように、私が生き残れたのは宮部小隊長の列機でいたからです。そして、生き残ることで逆に死ぬことの怖さを知ったのです。今だから言えますが、ラバウルに来た当時は、死ぬことをまったく怖れてはいませんでした。十九歳の若者に命の本当の尊さなどわかるはずがありません。おかしな喩たとえですが、たいした金額も持たないでギャンブルに行き、どうせ負けるだろうと思って平気で金額を賭かけていたような「ものです。しかしどうしたわけか勝ち続けると、いつの間にか恐怖を覚え、負けたくないと思い始める気持のようなものでしょうか」
「わかる気がします」
「十七年の秋からは、ラバウルに内地からミッドウェーの生き残りの熟練搭乗員たちが次々と送られて来ました。しかしその熟練搭乗員たちにとっても、ラバウルは過酷なところだったのです」
「パイロットの墓場だったのですね」
姉の言葉に井崎は頷うなずいた。
「しかしね、佐伯さん。我々はそれでもまだ幸せだったのですよ。本当の地獄を見たのは ──」
井崎は静かに息を吐きました。
「ガダルカナル島で戦った陸軍の兵隊さんたちでした」
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