大本営の参謀たちの作戦はまったく場当たり的なものでした。最初は敵の兵力がどれくらいのものいなのか調べようともせず、都合よく推算して、千人足らずの支隊で行けるだろうと。それで駄目だとなると、今度は五千人なら行けるだろうという安易な発想。これは兵力の遂次投入と言ってもっとも避けなくてはいけなし戦い方です。大本営のエリート参謀はこんなイロハも知らないのです。「敵を知り己を知れば百戦危からず」というのは有名な孫子の兵法ですが、敵も知らずに戦おうというのですから、話になりません。
哀れなのはそんな場当たりの作戦で、将棋の駒ように使われた兵隊たちです。
二度目の攻撃でも日本軍はさんざんに打ち破られ、多くの兵隊がジャングルに逃げました。そんな彼らを今度は飢餓が襲います。ガダルカナル島のことを「ガ島」とも呼びますが、しばしば「餓島」と書かれることがあるのはそのためです。この後、大本営は兵力の逐次投入を繰り返し、その多くの兵士たちが、飢えに苦しめられます。そして戦闘ではなく飢えで死んでいきます。
「立つことの出来る者は三十日、座ることの出来る者は三週間、寝たきりになった者は一週間。寝たまま小便する者は三日、ものを言わなくなった者は二日、まばたきしなくなった者は一日の命」と。
結局、総計で三万人以上の兵士を投入し、二万人の兵士がこの島で命を失いました。二万のうち戦闘で亡くなった者は五千人です。残りは飢えて亡くなったのです。
生きている兵士の体にウジがわいたそうです。いかに悲惨な状況だったかおわかりでしょう。
ちなみに日本軍が「飢え」で苦しんだ作戦は他にもあります。ニューギニアでもレイテでも、ルソンでも、インパールでも、何万人という将兵が飢えで死んでいったのです。
── なぜ飢えるか、ですか。軍が食料を用意しないからです。日本陸軍は作戦計画にあるだけの食料しか用意せずに兵士を戦場に送り込むのです。作戦計画の日数とは、つまりその日数で敵陣を奪い、その後の食糧はその陣地で奪えばいいし、また敵陣を乗っ取れば、その後から食糧は補充するという考え方です。食料のない兵士たちはあとがないでけに死物狂いで戦うだろうと踏んでいたのでしょうか。一木支隊のあとに送り込まれた川口支隊の兵隊たちは米軍の食料を「ルーズベルト給与」と呼んで、それを当てにしていたといいます。
しかし戦争はそう簡単に計画通りにはいきません。事実、今言った多くの戦場では、敵陣を撃滅するどころか自分たちの部隊が玉砕されて、その後、ジャングルで飢えとの戦いが始まりました。兵站は戦いの基本です。兵站というのは、軍隊の食糧や弾薬の補給のことです。戦国時代の武将たちが戦で最も重視したのが兵站だそうです。ところが大本営の参謀たちはそんなことさえ考えなかったのです。彼らは皆、陸軍大学をトップクラスで出た超秀才です。当時の陸大のトップクラスは東大法学部のトップクラスにひけを取らなかったでしょう。
こうしてガダルカナルに三万人という将兵が孤立して取り残されたわけですが、それらの将兵を見殺しにするわけにはいきません。海軍は多くの艦艇を出して、ガダルカナルに弾薬や食料を補給する任務を担いましたが、脚の遅い輸送船は島に近づく前にガダルカナルの敵飛行場からやって来る航空機の攻撃で沈められました。
そしてついに窮余の策として高速の駆逐艦による食料輸送が行なわれました。米などをドラム缶に詰め込み。夜にロープで海岸へ流すのです。駆逐艦の艦長たちは「ネズミ輸送」と自嘲したそうです。しかし命懸けのこの輸送も駆逐艦一隻で二万人を越える兵士たちの数日分の食糧しか届けられないのです。そして多くのドラム缶も朝に米戦闘機の機銃で穴だらけにされて沈められたそうです。
最後には潜水艦が命よりも大事な魚雷を降ろして、米を運びました。
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