それ以後も日本艦隊は何度か米艦隊に打撃をあびせました。八月に我が潜水艦「伊一九」が米大型空母「サラトガ」を雷撃して戦闘不能に陥れ、九月には同じく「伊一九」が米空母「ワスプ」を撃沈しました。
十月二十六日に行なわれたミッドウェー以来の空母同士の対決「南太平洋海戦」では、我が母艦搭乗員たちが鬼神の如ごとき攻撃で米空母「ホーネット」を沈め、空母「エンターオプライズ」を大破せしめています。「ホーネット」は東京空襲を行なった空母です。この時、母艦搭乗員たちは生還を期しがたい長距離攻撃を敢行し、多数の犠牲を出しながら、「ホーネト」を沈めたということです。
実は日本軍は知らなかったのですが、「南太平洋海戦」直後、米軍は太平洋で行動可能な空母が一隻もないという危機的状況に陥おちいっていたのです。その日はアメリカの海軍記念遺だそうでうが、「史上最悪の海軍記念日」と呼ばれたそうです。この時、米軍のガダルカナル守備隊は撤退尾を考えたといいます。
戦後、アメリカの戦史家の多くが「この時、日本の連合艦隊がすべての兵力をつぎ込めば、ガダルカナルを奪い返すことが出来た」と言っています。しかしここでも帝国海軍は兵力を小出しにして、千載一遇のチャンスを逃します。逆にこの剣ヶ峰で全兵力をつぎ込んだのは米軍でした。
世界最大の戦艦「大和」はラバウルの北わずか千数百キロのトタック島に温存しガダルカナルには一度も襲撃しませんでした。山本長官以下司令部幕僚たちは軍楽隊が演奏する中で豪華な昼食を取りながら、第一線で戦う将兵たちに命令を下していました。水兵たちが「大和」をどう呼んでいたか知っていますか ── 「大和ホテル」です。
しかし前線で戦う兵士たちは必死で戦いました。ルンガ沖では「ネズミ輸送」の駆逐艦隊が米重巡洋艦四隻に奇襲されますが、一隻の駆逐艦を失っただけで逆に重巡洋艦を一隻撃沈し三隻を大破せしめるという大殊勲をあげています。本来、重巡洋艦と駆逐艦では勝負になりません。大型トラックに軽自動車がぶつかるようなものです。しかし指揮官の田中頼三司令官は果敢な逆襲で重巡洋艦を打ち破ったのです。
これは余談ですが、これほどの戦果をあげた田中司令官はこの海戦後、訳のわからない理由で左遷させられています。アメリカ海軍からは「日本海軍で最も勇敢なる不屈の将」と最大級の賛辞を与えられている人が、です。ちなみに「伊二六」潜水艦も「サラトガ」を三ヶ月にわたって戦闘不能状態にしたにもかかわらず、魚雷一発命中くらいでは、ということで艦長以下乗組員には何の栄誉も与えられませんでした。彼らはこの一撃のためにひたすら苦しみに耐え、しかも雷撃機は十二時間にわたっておそろしい爆雷攻撃を受け続けて生還したのもかかわらず、です。
一帯に帝国海軍は第一線で命を賭けて戦った者に非常に薄情です。海軍大学校出身の将校はどんなミスをしても出世していきますが、叩き上げの将兵が報われることは極めて少ない組織です。
私たち、兵や下士官などは、最初からもう道具扱いです。幕僚たちにとっては下士官や兵の命などは鉄砲の弾と同じだったのでしょう。
大本営や軍令部の連中は人間ではない!
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