~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
ガダルカナル (六)
── すみません。興奮してしまいましたね。話を戻しましょう。
まあ戦果を挙げた戦いもありましたが、逆にやられた戦いも少なくありません。
サボ島沖の夜戦では米艦隊のレーダー射撃で重巡洋艦が沈められ、第三ソロモン海戦でも旧式戦艦二隻をレーダー射撃でうしなっています。この時も連合艦隊は「大和」を出し惜しみし、二線級の戦艦しか出撃させていません。
しかし個々の海戦よりもきつかったのは輸送作戦がほとんどうまくいかなかったことでしょう。
それは制空権がなかったからです。航空機のよって艦隊護衛をしようにみ、ラバウルから五百六十かいりは遠すぎました。後にラバウルとガダルカナルの間にあるブーゲンビル島のブインに航空基地を設置しましたが、多少はゆとりが出来たくらいで、制空権を取り戻せる距離ではありませんでした。
残る航空母艦による援護ですが、強大な敵の陸上航空基地に母艦が近づくのは危険極まりない行為です。ましてミッドウェーで四隻の空母を沈められた今、軍令部や連合艦隊司令部はそんな危険な作戦を立てられなかったでしょう。本当はやるべきでしたがね。
一体、何が日本陸海軍はこんな補給もままならない所で戦ったのでしょう。
とまれ戦いは始まりました。「ガ島」飛行場の奪還には、敵航空部隊の撃滅が絶対条件です。
そしてその任務を背負わされたのが私たちラバウル航空隊でした。ラバウルが「搭乗員の墓場」と呼ばれるようになったのは、これ以降の話です。

ラバウル航空隊は、ガダルカナルの戦いが始まって以降、急速に消耗していきました。
出撃は連日続きました。そのたびに少なからぬ未帰還機が出ました。
搭乗員の中で最も戦死者が多かったのは一式陸攻いっしきりくこう中功ちゅうこう隊です。一式陸攻は防御の弱さから、アメリカ軍に「ワンショット・ライダー」と呼ばれていたことは言いましたね。零戦も非常に防御の弱い飛行機でしたが、零戦の場合、たぐいまれなる旋回能力と戦闘力が防御の薄さをカバーしていました。しかし、一式陸攻は速度も遅く、戦闘時に狙われたらひとたまりもなかったのです。
十七年の秋には中功隊は出撃機機数の半分近くが未帰還になるようになりました。全機未帰還ということもありました。
中功隊の搭乗員たちは生き延びることをあきらめているようでした。それはそうでしょう。出撃すれば半分以上の確率で撃墜されるのですから。しかもその出撃が何度も続くのです。かれらの顔からは生気が消え、全身からは戦いに疲れ切った雰囲気を漂わせていました。しかし彼らは最後まで勇敢でした。泣き事一つ言わず、与えられた任務を務めました。後に神風特攻隊の人たちも自らの運命を受け入れて出撃して行きましたが、ラバウルの中功隊もまた死を前提に戦っていたのです。
零戦隊にも出撃のたびに一機二機と未帰還機が出ました。搭乗員の寝室には主のいなくなった私物が残り、それらはまとめて内地の家族の元に送り返されます。遺品の中には遺書もありました。搭乗員の中には遺書を書く者と書かない者がいました。私は万が一のことを考えて遺書は書いていましたが、遺書を書くと戦死するような気がして書かない者も少なくありませんでした。
仲間を失った悲しみを一番感じるのは、戦闘直後ではありません。夕食の食堂です。朝、一緒に飯を喰った仲間が夜にいないのです。夕食には必ず全員分の食事が用意されます。食堂では、誰がどこに座るかは決まっていませんが、何とはなしの習慣から、各自座る位置は決まっていました。ほら、会社の会議などでも、だいたい座る位置が決まっているでしょう。それと同じです。
夕食の時間に空いている席があれば、そこに座っていた男は未帰還ということです。それは普段隣に座っている男だとたまりません。昨日まで、いや今日の朝食の席でも冗談を言っていた奴が今はもういないのですから。飛行機乗りが死ぬ時は遺体もありません。激しい戦闘だと、一気に何人もの席が空くことがあります。だから夕食の席では、冗談はまったく出なくなりました。
九月のある日、私の谷田部空の先輩でもあった東野二飛曹が朝食の席で、
「一度でいいから、美味しい大福を食べたい!」
と大きな声で言いました。それを聞いた私も、つい大福を想像してしまい、思わず喉がごくりと鳴りました。大福餅などラバウルへ来てから一度も食べたことがありません。
「命を懸けて戦っているんだ。大福くらい食わせて貰ってもいいだろう」
東野二飛曹の冗談に、全員が笑いました。
その日の夜、食堂に、大福餅が並んでいました。東野二飛曹の声を聞いた烹炊員ほうすいいんたちが一生懸命に大福餅をこしらえてくれたのです。しかし夕食の席に東野二飛曹の姿はありませんでした。彼の食卓に置かれた大福は誰も手をつけませんでした。
そしてやがてそんな光景が当り前の日常になりました。
2024/10/03
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