ところで、「宮部小隊長の列機を外れたい」と言っていた小山一飛兵は、それから間もなく亡くなりました。
宮部小隊長の三番機だった小山一飛兵は、十月のある日、ガダルカナル上空で小隊長の命令を無視して、敵を深追いしました。グラマンを二機撃墜するという殊勲を挙げましたが、その日が彼の最後の戦いとなりました。
空戦後、私たちの小隊は他の機とはぐれて、三機だけでラバウルを目指しました。
一時間ほど飛んだ頃、小山一飛兵は宮部小隊長の横に並び、「引き返す」旨を合図しました。
私も彼の機に近づきました。どうやら燃料が少ないらしく、彼は、帰れそうもいないから、このままガダルカナルに戻って自爆する、と合図しますた。
我々戦闘機乗りは、いや戦闘機乗りに限らず、海軍の飛行機乗りは、飛行機の不調で帰還が難しい時は、敵艦隊あるいは敵基地に向けて自爆せよと教えられてきました。特に敵の上空で被弾した時は、必ずそうするように教えられてきました。私自身、ガダルカナルで、被弾した中攻が敵飛行場に自爆するのを何度も見ています。当時はそれが当り前と思っていましたし、自分もその時は躊躇なく敵の基地か艦に自爆するつもりでした。
今にして思えば、そうした土壌が後の神風特攻隊を生んだのかも知れません。
しかし今、目の前で戦友がたかだか燃料不足のために自爆するというのを見た時に、私は何とかならないものかと思いました。小山は谷田部の一年後輩で、同じ釜の飯を喰った仲間です。ラバウルでは一番の仲良しでした。
小隊長を見ると、彼も手先で信号を送っていました。
当時、私たちの機には無線機はありましたが、これはまったく役に立たない代物で、雑音ばかりで会話などはまったく聞こえないものでした。そのため搭乗員同士のやりとりは手信号でするしかなかったのです。真珠湾でも、無線に信用がおけないために、攻撃隊同士は信号弾を使っています。
「どれぐらい持ちそうか」という宮部小隊長の質問に、小山は「ブインの手前、百浬くらい」と答えました。百浬はキロに直すと百百八十キロくらいです。
宮部小隊長は「なんとか頑張って、帰還しろ」と」合図しました。小山一飛兵は「了解しました」と答えました。
私は彼を元気づけようと、かなり近づき、自分の翼で彼の翼を叩きました。彼はそれに気づくと、殴るぞ、といいう風に手で示しました。その顔は笑っていました。私も笑いました。不思議なもので、人間はこういう時でも笑えるものです。
小隊長機はゆっくりと高度を上げました。航空機は高空を飛ぶ方が空気抵抗と発動機の空気の混合比の関係で燃料消費が少なくてすむのです。また燃料が切れた時、より高空にいるほうが滑空距離が伸びます。その代わり、空気が少ない上に気温が低く、搭乗員にとっては楽な飛行ではありません。それに急激な上昇は燃料を大幅に喰います。
小隊長機はそのあてりも考えて、ゆっくりと高度を上げていきました。
さらにスロットルや速度について小山に細かい指示を与えました。
小山はまったく元気でした。私の笑顔には笑顔を反してきました。
零戦は何事もないかのように一路ラバウルを目指して飛び続けます。やがてブーゲンビル島が見えてきました。もう少しだと思いました。
我々は更に飛び、島まで三十浬来ました。ブインまで百浬くらいで堕ちるといっていた機がここまで持ったのです。あとわずかです。あと十分飛び続けることが出来れば生還出来ます。
私は木山が死ぬとは思えませんでした。今、目の前にこうしてにこにこ笑っている男が死ぬとはとても信じられません。
しかしその時は近づいていたのです。ブインを目前にして突然、小山機は降下して行きました。
私と小隊長もしおのあとを追いかけるようについて行きます。すごいのは降下する際も、小隊長は機を旋回させて周囲の見張りを怠らなかったことです。
降下中に小山機はプロペラが停止しました。そのままゆっくりと降下し、やがて海上に着水しました。飛行機はしばらく浮いています。小山はやがて操縦席から体を出すと、翼の上に立ち、上を見上げました、私はその上を旋回し、あらん限りの声で小山の名前を呼びました。おそらく彼も大声で叫んでいたのでしょう。白いマフラーを振りながら、何やら叫んでいるのが見えました。その顔をは笑っていました。
小山の飛行機はまもなく頭を下にして沈んでいきました。ちょうど逆立ちするような格好で沈んでいきました。沈む前に小山は海に飛び込みました。ライフジャケットは七時間ほど持つと聞いていました。私は携行していた食糧をマフラーに包んで落としました。
私は立ち去りがたく、何度もその上を旋回しました。
しかしいつまでもその場にいるわけには」いきません。私の機も燃料が乏しくなっていたのです。私は最後に大きく旋回して、バンクしました。小山も泳ぎながら敬礼を返しました。
私は機首を上げ、その場を離れました。その間、小隊長は少し上空で待機していました。小隊長のことですから、不意に現れるかも知れない敵に備えていたのでしょう。
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