~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
ガダルカナル (十四)
私たちはブインの飛行場に着陸すると、小山一飛兵の着水場所を知らせました。すぐに水上機が向かいましたが、一時間後、むなしく帰って来ました。着水地点には既に小山一飛兵の姿はなく、数匹のふかが泳いでいた、ということでした。
私はこの報告を聞いて、胸がかきむしられる思いでした。あの小山が鱶に食べられたなどとは信じられませんでした。どれほど苦しかっただろう。どれほど無念だったろう。
最後に見た小山の笑顔が脳裏によみがえりました。あれほど頑張って飛び続け、あとわずかのところまで戻りながら命を失うなど、本当に悔しいものがありました。もし、ちゃんと聞こえる無線があれば、事前に救助を求めることが出来たのに、また爆撃機のように電信でも積んであれば助かったのに。そう思うと一層悔しさが募りました。
兵舎に戻りながら、不意に怒りがこみ上げてきました。
「小隊長」
と私は言いました。
「どうして、小山に自爆をさせてやらなかったのですか?」
宮部小隊長は足を止めました。
「小山は鱶に食べられるより敵地に自爆して華々しく死んだ方が、ずっと幸せだったはずです」
「あの時点では助かる可能性があった」
「助かると思っていたんですか?」
「それはわからない。しかし飛び続ければ助かるかも知れない。自爆すれば、必ず死ぬ」
「しかし、ほとんど助からないでしょう。だったら戦闘機乗りらしい最後を迎えさせてやりたかった」
私は悔し泣きをしながら言いました。宮部小隊長は駄々をこねる私をじっと見つめていました。
「死ぬのはいつでも出来る。生きるために努力をすべきだ」
「どうせ、自分たちは生き残ろことは出来ません。もしわたくしが被弾したなら、潔く自爆させてください」
その瞬間、私は宮部小隊長に胸ぐらを掴まれました。
「井崎!」
小隊長は言いました。
「馬鹿なことを言うな。命は一つしかない」
その剣幕に私は言葉を返すことが出来ませんでした。
「貴様には家族がいないのか。貴様が死ぬことで悲しむ人間がいないのか。それとも貴様は天涯孤独の身の上か」
小隊長の目は怒りに燃えていました。
「答えろ、井崎!」
「田舎に父と母がいます」
「それだけか!」
「弟がいます」
そう答えた時、不意に五歳の弟、太一の顔が脳裏に浮びました。
「家族は貴様が死んで悲しんでくれないのか!」
「いいえ」
その時、太一の泣きじゃくる顔が見えました。私の目に口惜し涙ではない涙があふれてきました。
「それなら死ぬな。どんなに苦しくても生き延びる努力をしろ」
小隊長は私の服から手を離すと、兵舎の方に歩いて行きました。
後にも先にも宮部小隊長に怒鳴られたのはこれだけでした。しかしこの時の小隊長の言葉は私の心のずっと奥に深く沈みました。
2024/10/20
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