ガダルカナル島を失っても、ソロモンの海域は日米双方の戦力がぶつかり合う重要な戦線でした。
四月、山本五十六長官は敵航空機撃滅のための「い」号作戦を発令しました。
なげなしの母艦機と搭乗員をラバウル周辺の基地に陸揚げし、総力を挙げて敵の航空機を叩きのめす作戦です。
このため山本長官自らが陣頭指揮のためにラバウルに来られました。我々前線の兵士に、連合艦隊長官が直接言葉をかけてくれたのです。搭乗員達は意気に感じました。
「い」号作戦は成功し、当初十五日間の予定が十三日間で打ち切られました。しかし戦果と引き換えに、多くの航空機と搭乗員を失いました。
しかし悲劇はこのあとに起こりました。作戦終了後、ラバウルから更に前進基地のブイン島基地に向かった山本長官が乗った一式陸攻機が敵戦闘機によって撃墜されたのです。
米軍は傍受した日本軍の暗合をすべて解読していて、長官機を待ち伏せていたのです。長官機護衛には六機の零戦がついていましたが、雲に隠れて待ち伏せていた敵からの奇襲を防ぐことは出来ませんでした。
山本長官の死は全海軍にとってはかり知れないほどの痛手でした。
この時、長官機声に失敗した六人の搭乗員たちの悲劇も知ってもらわなければいけません。
彼らはその後、懲罰のように連日にわたって出撃させられ、わずか四ヶ月の間に四人が戦死し、一人が右手を失いました。ただ一人、杉田一飛長は獅子奮迅の戦いで生き抜き、撃墜百機以上という輝かしい記録を作りました。まるで山本長官の弔い合戦をしているような気魄迫る戦いぶりだったといいます。しかし終戦の年、九州の鹿屋基地で亡くなりました。彼の最期は戦後、人から聞きました。その日、敵戦闘機来襲に杉田上飛曹は遊撃のために飛行機に乗ろうとしましたが、敵がすぐそこまで来ていました。坂井少尉が「間に合わない、戻れ」と叫んだそぅです。そうですガダルカナルで奇跡の生還をなしえた坂井一飛曹です。当時は三四三空の少尉でした。坂井少尉の制止にもかかわらず、杉田は勇敢にも紫電改に乗り込み、滑走路を走りました。そして離陸した瞬間、上から襲いかかった敵機に撃たれ、滑走路に墜落したそうです。 |