~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
ヌード写真 (七)
少佐が士官宿舎に戻ると、宮部さんも兵舎から離れてヤシの根本に座りました。
わたしはその後を追いかけました。そして宮部さんの横に座りました。
「宮部一飛曹は碁を本格的にやっていたのですね」
「父が好きだったもので、最初はそれで習わされていたのです。しかしそのうちに私自身がのめり込み、中学に上がる前には、専門棋士になろうと思いました」
「お父さんが反対されたのですか」
「父は商売をしていて、それで私を跡取りにしたかったのです。父に反対されても、私は碁の勉強を続けました。父に内緒で、瀬越先生のところに通っていたんです。月謝は払えませんでしたが、先生は月謝は要らないとおっしゃってくださいました。私はそれに甘えていたのです」
「いい先生ですね」
「ところが、実は父が内緒で先生に月謝を払っていたらしいのです。父は人後に落ちない碁好きでしたから、私を専門棋士にしたくないが、強くなって貰いたかったのでしょう」
「それで、どうなったんですか」
「その後まもなく、父が相場に手を出して、店はつぶ れました。大きな借金をして家は破産します板。父は債権者に死んでお詫びをすると言って首をくくりました」
わたしはえらいことを聞いたと思いました。しかし宮部さんは淡々と語りました。
「あとに残された者は大変でした。私は中学を中退しましたが、母は病気になり、まもなく亡くなりました。たった半年で、私は天涯孤独の身になりました。金もなく、身寄りもなく、頼る親戚もない身の上で、何をしていいのかわからず、海軍に志願しました」
初めて聞いた宮部さんの過去でした。
「瀬越先生は、生活の面倒を見てやるから、内弟子に来ないかとおっしゃいました。しかし瀬越先生の家も裕福ではありませんでしたし、お断りしました。志願兵の試験に落ちたら、どこかの商店の丁稚にでもなろうと思っていました」
宮部さんも同じなんやなと思いました。海軍の下士官というのはたいてい農家の口減らしで入って来た連中です。農家の次男坊以下に生まれたモンは、都会に丁稚奉公行くか、軍隊に入るしか生きる道はなかったんです。中学へ行けるのはほんの一握りの子供だけでした。実は海軍兵学校の生徒も裕福でない家が多かったのです。兵学校は授業料がなかったんで、高等学校には行かれへん優秀な子供が大勢兵学校に行きました。あの頃、日本は本当に貧しかったんです。今からは想像も出来ないほどの階級社会だったんですね。
宮部さんは農家の次男坊ではなかったものの、家の不幸で軍隊になかったのですな。
こういう私自身、もともとは小作農家の三男坊です。尋常小学校を卒業して地元の醤油しょうゆ工場に行きましたが、その工場が潰れて行くところがなくなり、海軍に志願したんです。今の人たちからは想像もつかんことでしょうが、わたしらは喰うために海軍に入ったんで。<すbr /> 「戦争が終わったら専門棋士目指しますか」とわたしは宮部さんに聞きました。
宮部さんは笑いました。その笑いは「戦争が終わっら」というわたしの仮定が面白かったのかも知れませんな
「無理です。専門棋士を目指すには」、貴重な時間を失いました」
「でも、努力すれば」
「専門棋士になるためには十代の頃に、どれだけ多くのものを身につけるかにかかっています。私はそれが出来ませんでした。私はもう二十三です。仮に今、戦争が終わって、これから死ぬほど頑張っても、専門棋士にはなれません」
「残念ですね」
「別に残念ではありません」
宮部さんはさらりと言いました。
「子供の頃は小さなことで悲しんだり喜んだりしました。中学の時は、一高に進みか専門棋士になるかで本気で悩んでいました。またその夢が壊れたことで大いに悲しんだものです。でも、父と母が死んだことに比べたら、何ほどのこともありません」
そう言うて宮部さんは笑いました。
「でもね、今から見れば、それさえも大したことではありません。今度の戦争では、もっと恐ろしいことが日常に起こっています。毎日、多くの男たちが亡くなっています。内地では戦死の知らせを受け取っている家族がどれほどいることでしょう」
わたしは相槌あいづちを打つことは出来ませんでした。戦死はあくまで「名誉の戦死」であり、喜びこそすれ、公然と悲しむことは出来なかったです。宮部さんの言葉はうっかりすると非国民扱いにされかねない言葉だったんです。
わたしの当惑する顔を見て、宮部さんは少し悲しそうな笑顔を浮べました。そして、やや間を置いて、言いました。
「今の私の一番の夢が何かわかりますか」}
「何ですか」
「生きて家族の元に帰ることです」
わたしはその言葉にすごく失望したのを覚えています。これが海軍航空隊の戦闘機搭乗員が言う言葉かと思いました。この人が「臆病者」という噂は本当だと、あらためて思いました。
当時のわたしにとっては、「家」も「家族」も、そこから旅立って行くもんdした。父も母もわたしたちを送り出してくれる存在でした。だから、そこに帰りたいというのは、女々しい言葉と思ったんです。「家族」というものが「男が守るべきもの」ということは少しも理解出来なかったんです。
それがわかったのは、戦争が終わって復員して所帯を持ってからです。いや、その時もまだわかりませんでした。子供が出来て初めて、自分の人生が自分だけのものでないということを知りました。男にとって「家族」とは、全身で背負うものだということが、その時、宮部さんが言った「家族の元に帰る」という言葉の本当の重みを知ったんです ── 恥ずかしいことですわ。
話しは変わりますが、わたしの今の一番の楽しみは何だと思いますか。── 碁なんですよ。週に一度、老人会でザル碁を打つのが、一番楽しい時間なんです。
もし、かなうなら、宮部さんに一局教えて貰いたいと思いますなあ。
2024/11/09
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