~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
ヌード写真 (八)
十八年の夏以降は、ラバウルも連日空襲されるようになりました。かつて台南空の猛者もさたちがいたラエの飛行場も敵の手に落ち、周囲の島も次々と奪い返され、ラバウルはもう風前の灯火ともしびでしたね。
そして十八年の終りに「グラマンF6F」が登場しました。これは「グラマンF4F」を大きく上回る非常に強力な戦闘機でした。
一度、ラバウルに墜ちたグラマンF6Fを見て、唖然あぜんとしたのを覚えています。機体もごっつかったですが、中でも発動機は恐ろしく巨大で、お化けみたいに見えました。墜落の衝撃で壊れてましたが、整備長は出力約二千馬力と推定しました。零戦の二倍です。その大馬力にものを言わせた重武装と厚い防弾装備が印象的でしたな。
整備長の下で皆で壊れた発動機を分解して研究しました。ものすごう精密に作られているのがわたしのもわかりました。整備長は首を振って言いました。「こんな発動機を日本で作るのは至難の業だ」
敵の優秀戦闘機はグラマンだけではありません。カモメを引っくり返したような翼をつけた「シコルスキー」も大出力の発動機を備えた強大な新鋭戦闘機でした。われわれ整備兵にも、何か時代が変わりつつあるという感じがしましたわ。
航空兵たちに聞いても、米軍の新鋭戦闘機は非常に優秀ということでした。
しかしラバウルの零戦搭乗員たちは、これらの優秀なる戦闘機に勇敢に向っていきました。
ただ、その頃はかつてのガダルカナル侵攻戦ではなく、敵を迎え撃つ邀撃ようげき戦が主でしたから、戦闘機乗りたちも地の利を活かして戦うことが出来ました。燃料を気にせずに戦えるし、玉切れを心配することもありません。いざとなれば、落下傘脱出しても助かります。以前は落下傘など誰もつけませんでしたが、その頃にはかなりの搭乗員たちがつけたがるようになってましたな。
しかし決して楽な戦いではなかったようです。先程も言うたように敵の新鋭戦闘機のグラマンF6Fやシコルスキーは零戦よりも優秀な戦闘機ですし、何より数が圧倒的でした。一度の空襲で二百機くらいの敵機が来るのですが、こちらが邀撃に上がれるのはせいぜい五十機くらい。敵はいくら墜とされてもこたえませんが、こちらは数機の補充でさえ苦しい上に、何より搭乗員の補充がききませんでした。
零戦は次第に追いつめられていきましたな。
零戦隊の搭乗員の顔ぶれは、ひと月もすると半分以上は変わってました。変わらないのは西澤廣義さんとか岩井勉さんとか本当に少数の人たちだけでした。西澤さんは帝国海軍一の撃墜王としてその名をとどろかせていた人でしたし、岩井さんもベテランです。岩井さんは昭和十五年の零戦の初陣に参加した十三機の一人です。味方は一機も失うことなく中国空軍機二十七機を全機撃墜したという伝説の空戦の生き残りです。
のちに教官をやっていた時に予備学生たちから「ゼロファイター・ゴッド」という渾名あだなをつけられたそうですが、その空戦技術は神技に近いものがあたっと聞いています。
西澤さんも岩井さんも「米軍機は最初の一撃さえかわせば、それほど恐ろしいもんではない」と言うてましたが、彼らだこそ言えるんでしょう。空戦になれば、まず墜とされない自信があったんでしょうな。
有名な岩本徹三さんも同じ頃にラバウルにいたんですが、わたしがいた東飛行場とはかなり離れたトベラ飛行場を根拠地にしていたので、一度も話す機会がありませんでした。西澤さんと並ぶ達人と聞いていただけに、会う機会がなかったんは心残りですわ。」
そしていつも変わらない顔ぶれの中に宮部さんもいました。今にして思えば、あの戦場で生き残ることが出来たんですから、宮部さんはただの臆病なだけの人ではなかったのかも知れませんな。
2024/11/10
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