永井に会った後、ぼくは太平洋戦争の関係の本を読み漁った。多くの戦場で、どのような戦いが行なわれてきたのかを知りたいと思ったのだ。
読むほどに怒りを覚えた。ほとんどの戦場で兵と下士官たちは鉄砲玉のように使い捨てられていた。大本営や軍令部の高級参謀たちは兵士たちの命など目に入っていなかったのだろう。兵たちに、家族がいて、愛する者がいるなどということは想像する気もなかったのだろう。だからこそ彼らに降伏することを禁じ、捕虜になることを禁じ、自決と玉砕ぎょくさいを強要したのだろう。力を尽くして戦った末に敗れた者に「死ね」と命じたのだ。
ガダルカナルで全滅した一木支隊にも、戦いが済んで一夜明けた海岸には多くの負傷兵がいた。米軍が近づくと、彼らは動けないにもかかわらず、最後の力を振り絞って銃を撃ったという。そして銃の弾がない者は手榴弾で自決したという。やむなく米軍は戦車で負傷者を踏みつぶした。こんなことがいたるところで繰り返されたのだ。
航空兵の多くも死ぬまで戦わされたのは同じだ。被弾し、帰還が敵わない者は自爆するように教えられていた。操練と予科練の名簿は、おびただしい戦死者の名簿だ。
祖父たちは何と偉大な世代だったことか。あの戦争を勇敢に戦い、戦後は灰燼かいじんに帰した祖国を一から立て直したのだ。
ただ、特攻に関してはわからないことがいくつもあった。すべてが志願であったと書かれている本もあれば、強制的な志願だったと書かれている本もあった。はたして祖父はどっちだったのだろうか。
いずれにしても祖父たちの青春には、自由に生を謳歌おうか出来る時間も空気もなかったことはたしかだ。
元海軍中尉、谷川正夫は岡山の老人ホームにいた。
姉が一緒に行きたいと言った。いつの間にかこの仕事の主導権はぼくが握っていた。戦友会との連絡はすべてぼくが行なっていたからだ。
岡山には新幹線で行った。
「姉さんに言っておくけど ──」
とぼくは席に座ると、前から言おうとしていたことを言った。
「高山さんが言っていた祖父調べのことを記事にするという話し、あれは正式に断わるよ」
姉は頷うなずいた。
「高山さんが気を悪くするかも知れないけれど、祖父のことを記事にされるのは嫌なんだ」
「高山さんならわかってくれるわ」
そう言う姉の表情に微妙な感じがあった。
「高山さんと何かあったの?」
姉は「別に」と言って、窓の外を眺めたが、嘘をついているのはすぐにわかった。姉は昔から感情がすぐに表情に出るのだ。だからジャーナリストなんかには向かないんじゃないかと思っていた。
「何か言われたの?」
姉は観念したというふうに肩をすくめた。
「結婚を前提に付き合ってくれって言われたの」
ぼくは驚いて姉の顔を見た。しかしその表情からは喜んでいるのかどうかわからなかった。
「オーケーしたの?」
姉は首を振った。
「ちょっと待ってて言った」
「じらしたの?」
「まさか ── 子供じゃあるまいし。ただ、結婚を前提とすると、そう簡単には返事出来ないわ」
「本当のところ、どう思ってるの?」
「高山さんはいい人だし、私の仕事にも理解がある。だから ── いいかなと思っている」
ぼくが何かいおうとしたが、姉はそれを遮さえぎった。
「この話はこれでおしまい!」
ぼくは、わかったと答えた。それから目を閉じて寝ようと思ったが、とうとう姉が結婚するのかと思うと、妙に気持が高ぶって眠れなかった。高山が姉にふさわしい人物かどうかは判断出来なかった。もっともぼくが判断しても仕方のないことだったが。
何度か薄目を開けて姉を見たが、姉はずっと窓の外を眺めていた。三十歳になる大人の女の横顔だった。自分の姉ながら、綺麗きれいだと思った。
その時、突然、八年前の光景が心に浮んだ。
泣きじゃくる姉を藤木が慰めている光景だった。あれは藤木が故郷に帰る前日だった。箱根のドライブの翌週だった。ぼくが祖父の事務所へ遊びに行き、久しぶりに屋上へ上がろうとした時に目にしたのだ。屋上には植木がいくつも置いてあり、そこで一人の時間を過ごすのはぼくのお気に入りだった。
その時、屋上のドア付近で女性の泣く声が聞こえたような気がした。ぼくは足を忍ばせて、ドアを開けずに窓ガラスを通して屋上を覗のぞいた。すると、そこに姉がしゃがみ込んで泣いている姿が見えた。その横には藤木が困ったような顔をして立っていた。藤木は何か言ってるようだったが、声は聞えなかった。藤木が何か言うたびに姉は泣いて首を振った。最初姉が藤木に何かされたのかと思ったが、どうやらそうでないようだった。姉はまるで子供が駄々をこねるように泣いていた。あの気の強い姉があんなふうに泣く姿を初めて見た。そしてそんな姉を見る藤木も見たことのない悲しい顔をしていた。ぼくは足を忍ばせて階段を下りた。
二人の間に何があったのかは知らない。しかしあの時、女子大生だった姉は少女のように藤木を恋していたのだ。
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