老人ホームは岡山の港外にあった。すぐ後が山で、自然に恵まれた所に建っていた。近代的な作りの白いビルで、一見するとマンションのように見えた。
その老人ホームは、姉の言うところでは、入所時に何千万円か支払うと死ぬまでいられる所らしい。姉がインターネットで調べたようだ。
事務所で、谷川さんに会いたいと告げると、応接ルームに通された。と言っても部屋全体は小さな会議室みたいなたたずまいで、部屋の真ん中に机が置かれていた。
しばらくして、介護士に連れられて、車いすに乗った老人がやって来た。
「谷川だ。座ったままで失礼する」
その老人は言った。ぼくたちも挨拶した。
「人が訪ねて来るのは何年ぶりかな」
谷川はそう言って笑った。
介護士がぼくたちにお茶を入れてくれた。谷川は湯呑みを慈しむように持ち、静かにお茶を飲んだ。
「戦争の話はほとんどしたことがない。手柄話と受け取られるのは嫌だし、可哀想と同情されるのもまっぴただ。まして興味本位で質問されるのは耐えられない。これはあの戦争を戦った多くの人の共通した気持だろう」
姉が何か言おうとするのを、谷川は手で制した。
「君らの言わんとしていることはわかっている。本当は後世に語りつがねばならない話しなのかも知れん。それがあの戦争を戦った者の義務かも知れん。戦争体験を語る者の多くが、自らの使命として辛い体験を掘り起こしているのだと思う」
谷川は湯呑をテーブルに置いた。
「わしはもう長くない。妻に先立たれ、一人になってから、何年もそのことを考えている。しかしまだ答えは出ない。そのうちにお迎えが来るかも知れん」
谷川はぼくの目を見て言った。
「だが今日は語ろう」
わしは宮部とは中国の上海の第一二航空隊で一緒だった。宮部は非常に勇敢な、恐れを知らない戦闘機乗りだったな。操縦技術は抜群で、格闘戦にめっぽう強かった。一旦敵に喰らいついたら、絶対に離さなかった。誰かが「宮部はスッポンみたいだ」」と言っていたのを覚えている。
その頃の上海には、赤松貞明さんや黒岩利雄くろいわとしおさん、樫村寛一かしむらかんいちさんといった名人がごろごろいた。岩本徹三いわもとてつぞうさんもいたが、当時はまだ半人前扱いだった。
赤松さんにはよく殴られた。明治生まれの豪傑で、酒が入ると手がつけられなかった。酒の上の乱行は数知れずで、善行賞まで取り上げられたぐらいだ。赤松さんは戦後もいろいろと問題を起こした人でずいぶんと評判は悪いが、こと、操縦に関しては掛け値なしの名人だった。本人曰く三百五十機撃墜、というのは大嘘だが、空戦の腕は本物だった。
黒岩さんは単機空戦の達人で、若い頃の坂井三郎さんを模擬空戦で子供扱いにしたのは有名だ。太平洋戦争前に除隊して民間の航空会社にいたが、戦争中は輸送任務に就き、十九年にマレー半島沖で未帰還になった。戦闘機の操縦桿を握っていれば、絶対に撃墜されなかった人だと思う。
樫村さんは片翼飛行で有名な人だった。南昌の空戦で九六艦船の片翼を失いながら、見事な操縦で帰還した名人だった。
当時、新聞にも載り、戦前では全国で一番有名な海軍搭乗員だった。もちろん空戦技術も超一流だった。わしなどは何度も模擬空戦をやってもらったが、」全然歯が立たなかった。しかし樫村さんも十八年にガダルカナルで戦死した。
そんな中にあっても宮部の操縦の腕前は先輩たちに引けを取らなかった。赤松さんなどは「あいつは天才かも知れん」と言っていた。
逆に黒岩さんなどは「そんな無茶をやっとると、命がいくつあっても足りんぞ」と言ってたね。
宮部とはとくに仲が良くもなければ悪くもなかった。年は同じで、海軍に入ったのも同じ頃だが、操縦練習生になったのは宮部の方が先で、そのぶん飛行機乗りの経験は宮部の方が長かった。腕もはっきりと上だったから、競争心というものはあまり持たなかった。ただ一つだけ自慢させてもらうと、太平洋戦争が始まる前の操練はものすごくレベルが高かった。わしの時は八千人の受験者で受かったのは五十人、最後まで残って艦上機の搭乗員になれたのは二十人余りだ。競争率はおよそ四百倍だ。自分で言うのも何だが、選りすぐりの男たちだったと思う。
十六年の春に、二人とも内地へ呼び戻され、空母の乗員になった。しかし宮部は「赤城」、わしは「蒼龍そうりゅう」と艦が別れたので、真珠湾から半年間、ずっと同じ艦隊で行動を共にしていたが、出会うことはなかった。
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