~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
狂 気 (三)
わしらはその間暴れ回った。向かう所敵なしだった。結局、それが悪かったんだろうな、どうやったって負けるわけがないと長官たちが思い込んでしまったんだよ。
しかしわしら搭乗員は油断しなかった。なぜって ── わしらはいつも最前線で戦っていたんだ。機動部隊としては連戦連勝かも知れないが、搭乗員の損失がゼロということはありえない。どんな圧勝の戦いでも必ず未帰還機は出た。真珠湾でも未帰還機が二十九機も出たんだ。だからわしらはいつも必死だった。空の上で油断すれば死ぬのは自分自身だからだ。
ミッドウェーでも、わしら零戦隊は敵の基地航空機と空母の艦上機を百機以上撃墜した。あの海戦の負けを作ったのは南雲、それに源田だろうね。
ミドウェーから戻ると、わしら搭乗員は内地で一ヶ月くらい軟禁状態にされた。空母四隻沈没のことは徹底して箝口令そうりゅうかれた。口外すれば、軍法会議で重罪みたいな空気があったな。馬鹿げてるよ。国民の本当のことを言わないでどうする。いや、それどころか海軍は陸軍にも本当のことを言ってなかったらいいな。それでガダルカナルの時も、陸軍は、なぜ海軍は米軍よりも優勢なのに制海権と制空権がとれないのだ、と不思議がっていたそうだ。
わしはその後、新たに編成された航空艦隊に配属となった。母艦に乗らなかった連中の多くがラバウルへ行った。
わしは改造空母の「飛鷹ひよう」に乗り、ガダルカナル奪回作戦に従事した。「南太平洋海戦」も戦ったが、あれはきつかった、数次にわたる攻撃で「ホーネット」を沈めたが、多くの歴戦搭乗員、特に艦爆と艦攻の優秀なやつらを大勢失った。
結局ガダルカナルを奪い返すことは出来なかった。半年のわたる戦いで、ミッドウェーの生き残りの搭乗員の大半はソロモンの空に散った。貴重な熟練搭乗員の八割方はそこで失われたと思う。帝国海軍は取り返しのつかないことをやってしまったのだ。
わしはその後、内地で半年くらい教員をやってから、インドネシアのチモール島のクーパン基地に配属となった。そこでオーストラリアのポートダーウィンへの攻撃を繰り返した。
その頃は南太平洋の主導権は完全にアメリカに握られていた。ラバウルはアメリカの反攻作戦の矢面に立たされていた。そんな状況で、オーストラリアを攻めるも何もあったものじゃない。
ラバウルは搭乗員の墓場と言われたが、十八年の後半になると、逆に数少ない生き残りの連中は腕利き揃いで、敵の反攻をよくしのいでいた。というのもかつてラバウルは千キロも離れたガダルカナルへ長駆侵攻していたが、その頃は逆に攻めて来る相手を邀撃ようげきする戦いだったからだ。言うなればホームで迎え撃つ戦いだったわけだな。
あの頃のラバウルには岩本徹三さんがいたはずだ。岩本さんは太平洋戦争で日米を通じて最高の撃墜王だ。最終的に撃墜数は二百機を超えたのじゃなかったかな。
西澤廣義もいたな。西澤は一時内地へ帰っていたが、十八年にはラバウルに戻っていたはずだ。西澤は岩本以上の達人だったかも知れない。米軍からも非常に高い評価を受けていて、現在もアメリカ国防省に西澤の写真が飾られているほどだ。そんなパイロットは他にはいない。
それに岩井勉も小町さだむもいたはずだ。小町は若いが名人だった。とにかく、数は少ないが、凄腕が何人かいた。いずれも簡単に墜とされるような連中ではない。宮部もその中の一人にいた。
西澤らの奮戦でラバウルは持ちここたえていたが、いかんせん多勢に無勢だ。それに制海権を取られているから、補給がうまくいかない。それでついにラバウルも駄目になったというわけだ。そうなると敵もラバウルを無理に攻撃する必要はない。結局米軍はラバウルを孤立させ、一足飛びにサイパンに攻め込んで来た。
米軍は一気に内懐うちぶところに斬り込んで来たのだ。
2024/11/24
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