まもなく発着艦の訓練は中止になった。このまま訓練を続けていけば、おびただしい飛行機と搭乗員を失っていくばかりだからが。それにもう一つ、タウイタウイの湾外は敵潜水艦の遊弋するところで、そんなところで発着艦訓練をするのは危険極まりなかったからだ。艦艇が潜水艦を警戒する時は之字と言ってジグザグに航進するが、航空機の発着時には空母は風上に向かって直進する。こっれは潜水艦にとっては絶好の攻撃目標になる。
我が駆逐艦は対潜能力に大いに欠けていた。跳梁跋扈する敵潜水艦を仕留めることが出来なかったのだ。下手をすると逆に駆逐艦が潜水艦にやられることさえある。ネコがネズミにやられるようなものだ。これは敵の優秀な水測兵器と電探せいだった。つまりテクノロジーの差だ。司令部はたかだか発着訓練のために貴重な空母を危険にさらせないと判断したのだろう。
発着艦訓練の中止を聞いた夜、わしは宮部を飛行甲板に誘った。
「訓練を中止してどうするつもりなんだ」わしは言った。
甲板にはなま暖かい風が吹いていた。熱帯の夜だった。二人は甲板に腰を下した。
宮部は言った。
「参謀連中は発艦さえ出来れば、と思っているのだろう。実際、発艦はなんとか出来るようだから」
「すると攻撃は最初の一回限りということになるぞ」
宮部は頷いた。
「一撃に賭けるつもりなのだろう」
わしは暗澹あんたんたる気持になった。
訓練中止は搭乗員にとって大きな痛手だった。搭乗員の練度というものは訓練で維持するものだ。スポーツのトレーニングと一緒だと言えばわかるかな。
大一番の戦いを前にして、わしらはひと月近く飛ぶことが出来なかったのだ。
そして十九年六月ついに米軍がサイパンを猛攻した。
これは参謀たちにとって予期せぬものだったらしい。サイパンやグアム方面は多くの島々に我が軍の陸上基地が多数あり、航空機の総数もかなりのだったから、まさか米軍がやって来るとは思わなかったのだろう。これも油断に他ならない。
米機動部隊はそれrたの基地に凄まじい数の航空機を送り込んで来た。日本軍の基地航空隊は各個に撃破され、ほとんど壊滅状態になった。
しかしサイパンは日本軍としては絶対に守り切らねばならないところだった。ガダルカナル島やラバウルは太平洋戦争が始まってから占領した島だが、サイパンは違う。ここは戦前から日本の統治領で、日本人町があり、多くの民間人も住んでいた。
それにサイパンを取られたら、新型爆撃機B29の攻撃に本土がさらされる危険もある。だからこそ日本軍はここを絶対国防圏としていたのだ。
米軍のサイパン上陸を知った連合艦隊司令長官はただちに「あ」号作戦を発令した。「あ」号作戦とは米機動部隊撃滅作戦だ。
小澤治三郎長官の率いる第一機動部隊はタウイタウイからサイパンに向かった。
連日、多数の索敵機を送り出した。これはミッドウェーの敗北を教訓にしたものだ。
そして十八日、ついに索敵機が米機動部隊を発見した。しかし日没が近かったことに加え、距離が遠すぎたので、攻撃は翌日ということになった。
翌日、米機動部隊との距離は四百浬かいりまで近づいた。この時点で我が機動部隊はまだ米艦隊に発見されていない。我が軍にとっては大きなチャンスだ。しかし仮に発見されていたとしてもかまわなかったのだ。なぜなら日本の航空機は米航空機よりも航続距離が長く、相手の手の届かない距離から攻撃出来るのだ。そう、ボクサーのリーチが長いみたいなものだ。
これが世に名高い小澤長官の「アウトレンジ」戦法だ。米機動部隊が攻撃不可能の距離から攻撃をかけるのだから、リスクゼロの戦法というわけだ。
こう言えば、まさに理想的な作戦に聞こえるが、実態はそううまい話しばかりではない。たしかに機動部隊にとってはリスクはないが、航空隊のとってはそうではない。
搭乗員にとって、四百浬を飛んで敵機動部隊を攻撃するというのは容易なことではない。四百浬と言えば約七百キロだ。敵上空に達するまでに二時間以上の洋上飛行を要求されるのだ。ハワイのように動かない陸上基地ならまだしも、相手は高速で動き回る機動部隊だ。敵艦隊上空にたどり着く間に百キロも移動する相手なのだ。はたして敵機動部隊にたどり着けるかどうかもわからない。誘導は熟練搭乗員がやるが、途中で敵遊撃隊に出喰わして編隊がばらばらになれば、多くの搭乗員が敵機動部隊に行き着けないだろう。
しかも我が攻撃隊のほとんどが新人同様の搭乗員なのだ。たしかに彼らの志気は旺盛だった。戦いに倦うみ疲れていた古参搭乗員よりははるかに強い戦闘意欲を持っていた。しかし空の上は気持だけではどうしようもない。純粋に航空機の性能と操縦技術がものを言うのだ。
首尾よく攻撃を終えた後は、母艦に戻る自信のない搭乗員たちはグアム島の陸上基地に行き、そこで燃料と機銃弾薬および爆弾を搭載し、反復攻撃をしかけるように命じられていた。
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