わしは木更津でしばらく教員をやったが、秋には再び、戦地へまわされることになった。行く先は比島だった。
再び戦地に行くことが決まった時、輸送船の都合で、一週間の休暇が貰えた。
わしは久しぶりに故郷へ帰った。故郷では村の人たちが歓迎会をしてくれた。わしは真珠湾攻撃に参加した搭乗員ということで、二年前から村の英雄にされていたのだ。
村の人たちからは戦況のことを訊かれて困った。大本営の発表は嘘ばかりだったからだ。しかし村の人たちはそれを信じていて、わしに華々しい話しをさせようとするのだ。内地では驚くほど切迫感ががなかった。日常物資などはかなり欠乏していたようだったが、当時はまだ本土に空襲はなく、銃後の国民にとっては、戦争の怖さを身近に感じることはなかったのだ。
こんな人たちにマリアナで起こったことは口が裂けても言えない。それに休暇を貰う時に、海軍の状況については一切喋ってはならぬと言い渡されていた。
その時手伝いに来ていた女性の中に、一人の美しい女性がいた。何と小学校の同級生の島田しまだ加江かえだった。宮部に話した女だ。
「正夫さん、立派になられましたね」
彼女は言った。
「ありがとうございます」
わしはそれだけ言うのが精一杯だった。当時、わしは、まだ女を知らなかった。慰安所には何度も誘われていたが、実は、一度も行ったことがなかった。
「正夫さんがお国の英雄なんて、信じられない」
彼女はそう言って、けらけら笑った。
「わたくしもそう思います」
わしがまじめくさって言うものだから、彼女は一層おかしそうに笑った。
「私は昔、正夫さんを泣かしたことがあるのですよ」
「覚えています」
たしか小学校の一年生かその時分だった。加江は気の強い女の子で。ある時、さっさいなことで喧嘩になり、加江に頭をさんざん叩かれて泣かされたのだった。かなり長い間、屈辱的な思い出だっただけに、しっかりと覚えていた。
「でも今では英米の戦闘機を撃墜しているんでしょう」
「はい」
「お国のために、ご苦労さまです」
加江は両手をついて深々と頭を下げた。そして座敷を後にして二度と戻らなかった。
宴会の間中あいだじゅう、わしの心の中は彼女のことで一杯だった。多分、酒が入っていたせいだろう。わしは宴会の終わりに、村長に「島田加江さんは今独身ですか」と訊いた。
「お前、加江を気に入ったのか。あれは行き遅れだが、村一番の別嬪べっぴんだ」
「もう誰か決まった人がいるのですか」
「そんなものはおらんはずだ。お前、加江を貰うか」
時分でも思いがけなく「はい」と答えていた。
村長は、よしわかったと言った。その場の話はそれだけだった。翌日、実家で休んでいると、村長と加江の父親がやって来た。二人はわしの父と兄と話し合い。わしと加江を結婚させることを決めた。話しは進み、祝言は二日後ということになった。わしが隊に帰るのは三日後だった。
今更待ってくださいと言えるものではない。わしは覚悟を決めた。
二日後、わしの家で祝言を挙げた。加江とはあの日以来、一度も会話をしていなかった。宴会が済んで二人きりになった時は、すっかり夜も更けていた。
加江は「よろしくおねがいします」と深々と頭を下げた。わしも「こちらこそ」と神妙に頭を下げた。わしは緊張していた。せん戦場でもこんなに緊張することはあったかというくらい緊張していた。
しかしわしは腹を据えて言った。
「加江さんに言っておかなければならないことがあります」
「はい」
「大本営では日本は勝っているようなことを言っていますが、本当は負けています」
加江は黙って頷いた。その様子を見て、村人たちも本当は大本営の発表など信用していないのいだなとわかった。空襲は受けていなくとも戦況の悪化は感じていたのだ。
「時分は明日、隊に戻ります。次はどこへ行くかわかりません。もしもう一度戦地に行くようなことがあれば、今度こそ戻れないかも知れません」
「はい」
祝言まで挙げてこんなことを言うのもなんですが、わたくしの不用意な一言から申し訳ないことをしたと思って居います。もし、わたくしが戦死したら、あなたは後家になります。その時は、わたくしの家のことなどは気にせず、別の男と一緒になって下さい」
「生きて帰って来てはくださらないのですか」
「約束は出来ません。わたくしは加江さんを生娘のままにしておきたいのです。もしわたくしが帰ってこなくて、あなたが別な男と一緒になる時、その方がいいと思うからです」
加江はわしの話しをじっと聞いていたが、長い時間があって、言った。
「なぜ、わたしをお嫁さんに欲しいといってくれたのですか」
「好きだからです」
「わたしがなぜ正夫さんのところにお嫁に来たかわかりますか」
「なぜです」
「好きだからです」
その言葉を聞いた時、加江のためなら死んでも悔いはないと思った。
わしはその夜、」加江を抱いた。
── くだらない話を聞かせてしまったな。堪忍してくれ。
翌日、わしは加江と別れて、多くの村人たちに見送られて村を後にした。
さらに三日後、わしは再び日本を離れた。
米軍の次なる反攻地点は比島のレイテ島だった。
連合艦隊はレイテ上陸の米軍を叩くための作戦を展開した。「捷一号」作戦と呼ばれるものだ。
わしはルソン島のマバラカット基地に配置になった。
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