~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
狂 気 (十一)
マバラカット ── 何という嫌な響きだ。いや土地の名前に罪はない。しかしわしにとってこの町は、今も名前を聞くだけで心に暗い影が差す。
わしが到着してしばらくしたある夜、下士官以下の搭乗員が総員、指揮所前に集合させられた。集まった搭乗員を前にして副長は言った。
「諸君に集まってもらったのは他でもない。今、日本は未曾有の危機である。戦況は極めて厳しいと言わざるを得ない。そこで、今後は、米軍に対して必殺の特攻攻撃を行なう」
どういう意味かすぐにわかった。体当たり攻撃せよというのだ。
「しかし特別攻撃は十死零生の作戦であるから、志願する者だけがこれに参加することとする」
空気が張りつめた。息をするのも苦しいような思い静寂が指揮所の周囲を覆った。
「志願する者は一歩前へ出ろ!」
副長の横にいた士官が大声で言った。
しかし誰も動かなかった。はい、そうですかと動けるものではない。「今ここで、死ぬ者は名乗りを上げよ」と言われて、即答出来るはずがない。いかに死を覚悟していようと、そのこととは別だ。
「行くのか、行かないのか!」
一人の士官が声を張り上げた。その瞬間、何人かが一歩前に進んだ。つられるように全員が一歩前に進んだ。わしも気がつけば皆に合せていた。
戦後になって、この時の状況が書かれた本を読んだ。士官の言葉に搭乗員たちが我先に「行かせてください」と進み出たことになっていたが、大嘘だ!
そう、あれは命令ではない命令だった。考えて判断する暇など与えてくれなかった。わいらは軍人の習性として、上官の言葉に反射的に従ったようなものだ。
隊舎に戻ってから、ことの重さがひしひしと伝わって来た。最初に考えたのは加江のことだった。彼女との約束を破ってしまうことになると」思った。加江の泣く顔ではなく、怒る顔が浮んで来た。かつて子供の頃、わしを叩いた加江の顔が浮んで来た。わしは心の中で何度も謝った。
これまで一度も遺書など書いたことはなかったが、初めて書いた。何を書いたかは覚えていない。しかし書き出しは今でも覚えている。「愛する加江様へ」と書いたのだ。
わしは正直に言って死ぬことを怖れてはいなかった。これは強がりではない。真珠湾攻撃の時から、命はないものと思っていた。わしよりも優れた搭乗員が何人も亡くなっていた。わし自身、これまで百回近い空戦で、何度も敵弾を受けた。いずれも致命傷にはならなかったが、あと数センチずれていれば撃墜されていたということが何度かあった。今日まで生き延びて来たのは幸運だったに過ぎない。いずれはわしも戦友たちの後を追う ──。
しかし死を覚悟して出撃するこいとと、死ぬと定めて出撃することはまったく別ものだった。これまでは、たとえ可能性は少なくとも、一縷の望みをかかけて戦ってきたのだ。だが特攻となればもう運も何もない。生き残る努力もすべて無駄なのだ。出撃すれば必ず死ぬ。
しかし、志願したからには、潔く死ぬしかない。ただ加江のことだけが心残りだった。結婚するのではなかったと心から後悔した。しかしその一方で、加江を守るためなら死ねると思った。
2024/12/04
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