~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
狂 気 (十三)
関行男大尉率いる敷島隊は十月二十一日に出撃した。しかしその日は接敵出来ず、基地に戻って来た。翌日もまた出撃したが、同じく接敵出来ず基地に戻って来た。
これは非常に残酷なことだと思う。
関大尉には新婚の奥さんがいた。彼女をおいて死ぬことはどれほど辛かっただろう。彼は出撃前に親しい人に「自分は国のために死ぬのではない。愛する妻のために死ぬのだ」と語ったそうだが、その心境はわかる。関大尉以外の隊員たちもみんな死を前にして、自分なりの死の意味を考え、深い葛藤かっとうの末に心を静めて出撃したと思う。
それが敵を発見出来ず、再びわずかばかりの生を享受出来ることが、彼らにどれほどの苦しみを背負わせたことだろう。今宵はなき命と思っていた身で、再び夜を過ごすことがどれほどの苦しみを与えたことか。
しかし関大尉を始めとする隊員たちは、わしらにそんな苦悩を決して見せなかった。何という偉い男たちだったかと思う。
そして彼らは四度目の出撃でついに帰って来なかった。
その日、敷島隊を援護したのは、前日クラーク基地から呼ばれてやって来た西澤飛曹長率いる四機の零戦だった。そう、かつて「ラバウルにこの人あり」と言われた西澤廣義だ。彼が呼ばれたのはおそらく特攻機の援護に加えて、敵艦までの誘導という任務もあったのだろう。
関大尉たちの敷島隊の五機は全機体当たりに成功し、護衛空母を三隻大破させるという大戦果を挙げた。このことはセブ島基地からの電報でわかった。史上初の特攻は大成功に終わったのだ。戦果報告をしたのは西澤飛曹長だった。なお、この時の西澤の報告は非常に正確なもので、戦後、米軍の発表では一隻沈没、二隻大破というものだった。
西澤飛曹長は敵戦闘機から敷島隊を守り切り、対空砲火の猛火の中でその突入を見届けた上、」追いすがるグラマンF6Fを二機撃墜して、セブ島に基地にたどり着いたのだった。
これは後にセブ島の基地にいた搭乗員から聞いた話だが、零戦から降り立った西澤飛曹長のまとう異様な殺気に誰も声をかけられなかったという。
ちなみに終戦まで行なわれた航空特攻作戦だが、この時の攻撃が最大の戦果を挙げたものだった。米軍の意表を衝いたことがもっとも大きな成功要因だったが西澤という日本海軍随一の戦闘機乗りが援護したということも大きな理由だっただろう。皮肉なことに、この時の大戦果が軍令部に「特攻こそ、まさに切り札」と信じさせたのかも知れない。
西澤はその夜、親しい人にぽつりとつぶやいたという。「俺もまもなく彼らの後を追う」と。
西澤はその日の出撃で、対空砲火で二番機を失っていた。彼が列機を失ったのはこの時が初めてだったと言われる。これまで何百回と出撃し、百機以上の敵機を撃墜して来た男の、実は一番の勲章はらだの一度も部下の命を失わなかったことだ。こんな男は他には坂井三郎さんしかいない。いや、あの地獄のラバウルで一年以上も戦い、ついに一機の列機も失わなかったのだから西澤は坂井さん以上と言えるかも知れない。
西澤が「あとを追う」と呟いたのは、関大尉の敷島隊のことを思って言ったのだろうが、加えて失った列機に対して言った言葉かも知れない。西澤のその言葉は現実のものとなった。
翌日、マバラカット基地に戻ろうとした西澤飛曹長に、基地の指揮官は「零銭を残して置け」と言い、搭乗員だけでマバラカットの基地に戻ることを命じた。西澤は他の二人の搭乗員と共にダグラス輸送機に乗りマバラカットに向かった。そして、その輸送機が敵戦闘機に撃墜されたのだ。米軍パイロットたちから「ラバウルの魔王」と怖れられた男のあっけない最期だった。
西澤はどれほど無念だったことだろう。零銭の操縦桿を握っていれば絶対に墜とされることはなかったはずの男が、生涯最後に乗っていたのは、武器を持たない鈍足の輸送機だったのだ。
こうして日本海軍の生んだ最高の撃墜王が、特攻の翌日に死んだ。二十四歳の若さだった。
関大尉は軍神として日本中にその名を轟かせた。関大尉は母一人子一人の身の上で育った人だった。一人息子を失った母は軍神の母としてもてはやされたという。しかし戦後は一転して戦争犯罪人の母として、人々から村八分のような扱いを受け、行商で細々と暮し、最後は小学校の用務員に雇われて、昭和二十八年に用務員室で一人寂しく亡くなったという。「せめて行男の墓を」というのが最後の言葉だったという。戦後の民主主義の世相は、祖国のために散華した特攻隊員を戦犯扱いにして、墓を建てることさえ許さなかったのだ。関大尉の妻は戦後、再婚したと聞いている。
2024/12/08
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