さて、「捷一号」のこともお話ししておこう。もっとも今から語ることは、わしが当時、直接見聞きしたことではない。
敷島隊が特攻出撃を繰り返している同じ頃、レティ湾を目指して進む粟田艦隊はシブヤン海で敵空母艦上機の猛烈な空襲を受けていた。波状攻撃で多くの艦艇が被害を受けていたが、その攻撃は「武蔵」に集中していたという。「武蔵」はあの「大和」の姉妹艦で、不沈戦艦と呼ばれていた世界最大の戦艦だ。しかし、のべ数数百機におよぶ米艦上機の攻撃に、さしもの「武蔵」も満身創痍になった。
一方、小澤治三郎司令長官の率いる空母部隊は、米機動隊による粟田艦隊への攻撃を我が方に向けるべく、レティ湾を目指して南進していた。敵の機動部隊にわざと発見されるように派手に電信を打ちまくり、多くの索敵機を飛ばしていた。
そしてついに敵機動部隊を発見し攻撃隊を送り込んだ。この攻撃は特攻ではなかったが、実質は特攻に近いものだった。なぜなら二度と戻って来られない攻撃だからだ。空母は囮だから沈められる運命にあった。つまり攻撃隊には戻るべき母艦はなかったのだ。搭乗員たちは、機動部隊を攻撃した後は、帰還が難しい場合はそれぞれがフィリピン各地にある基地に向かえといおう命令を受けていたという。しかし広い太平洋上で洋上航行に馴れていない若い搭乗員たちにそいんなことが出来るわけがない。
ましてや敵の強大な空母群から発進する戦闘機隊の邀撃にあっては生き残ることさえ至難だった。
事実、この時の特攻隊のほとんどは敵戦闘機によって撃ち墜とされたということだ。
しかし小澤司令長官の決死の作戦は成功した。ハルゼー率いる米機動部隊は小澤艦隊を発見し、こちらこそが主力だと勘違いしたのだ。
その頃、粟田艦隊は一時反転していたから、ハルゼーは粟田艦隊は被害甚大で撤退したと思い込んだのだ。ハルゼーは粟田艦隊を追わず、全力で小澤艦隊に向かった。
小澤艦隊は米機動部隊が自隊の位置を摑んだと判断するや、今度は北上し、ハルゼーに自分を追わせた。ハルゼーは日本の機動部隊を叩くべく、小澤艦隊を追った。
ハルゼーのこの判断は当然だろう。真珠湾以来、太平洋の戦いは空母こそが主力だったのだから。しかも小澤艦隊には連合艦隊の最大の空母「瑞鶴」がいた。真珠湾作戦に参加して大いなる戦果を挙げ、その後、米空母を二隻も沈めている空母だ。米軍にとっては、過去、三年にわたって苦しめ続けられた恐るべき空母だった。
アメリカの機動部隊の攻撃は凄すさまじかったと聞いている。小澤艦隊の多くはほとんどなすすべもなく沈められた。真珠湾以来の歴戦艦、我が連合艦隊一の武運に恵まれた「瑞鶴」もついにエンガノ岬沖に沈んだ。
しかし小澤司令長官の命を賭かけた大作戦は成功した。ハルゼーはまんまとおびき出され、レイテ島の周辺海域はがら空きになったのだ。
実はその頃、敵機の空襲がなくなった粟田艦隊は再びレイテを目指していたのだ。
粟田艦隊は、敵の航空攻撃と潜水艦攻撃で、「武蔵」をはじめ何隻かの艦艇が沈められ、残りの艦艇も傷を負っていたが、世界最強の「大和」は健在で、まだ多くの艦艇が力を残していた。
小型の護送空母六隻と駆逐艦七隻からなる米艦隊は突然、サマール沖に日本艦隊が現れたのを見て、驚愕きょうがくしたという。煙幕を張り、駆逐艦が魚雷を放ち、必死で逃走を図った。頼みとする高速機動部隊は小澤艦隊におびき出されていた。米艦隊は全滅を覚悟したという。
ついに肉を切らせて骨を断つという日本海軍の決死の作戦が実ったのだ ──。
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